寝る/立つ、デカルト/マキャヴェリ(メモ)

梁文道「読者的身体」in『読者』*1法律出版社、2009、pp.16-20



很多人以為読書是一項純智的行為、與肉体無関、但只要再想一想、就会発現即使是在看来很静態的閲読過程裏、我們也得用上我們的身体器官、例如眼耳手口、無一不是肢体的一部分。只用理性只用霊魂、你読得了書嗎?(p.16)
このテクストは「坐」と「手」に分かれている。「坐」では本を読む姿勢が問題にされる。「笛卡児躺着読、馬基雅維利站着読、総之都不像我們這様坐着読」(pp.16-17)。
デカルトは寝ながら本を読んだ。一般人でも寝ながら、寝酒代わりに本を読むことはある。デカルトの場合は逆に目醒めた後にベッドに横たわりながら書を読むことを好んだ。ところで、梁氏は瑞典に招かれた際、早朝から講義をしなければならず、おまけに瑞典の朝は寒かったので、肺炎に罹って死亡したという話から、デカルトというのは「性格懶惰身虚弱的人」だと思っていたというが、実際デカルトは剣客でもあり、現在は失われてしまったが、剣術についての著作もものしている(p.17)*2
マキャヴェリは正装をして、立ちながら本を読むのを好んだ(ibid.)。立ちながら読むことに関しては、1610年のライデン大学図書館の様子を描いた絵画を引き合いに出して、この時代、書物を書見台に載せて、立って読むことは「常態之一」であり「不足為奇」という(p.18)。昔の書物はサイズが大きく重かった。正装に関しては、伊太利の学者Guglielmo Cavallo*3によれば、それも「読希臘羅馬名家経典的儀式之一、並非馬氏一人的怪癖」であるという(ibid.)。また梁氏は、マキャヴェリがその一方で森の中にダンテを持ち込んで読むことも好んだことに注目している(p.17)。曰く、

如今我們若要站着閲読、多半是在地鉄或巴士裏面、一手握着扶杆、一手持書。所以書本不宜過大、現代袋装書流行也與公共交通工具的普及有関。但在中古欧洲、一般学者研読的書籍、其尺寸可就大多了、絶対不適宜装在袋子裏到処走、更不可能只用一只手去捧読、好在他們有読書架。到了馬基雅維利身処的文藝復興時期、其実也有了小巧的十六開本(Octavo)、只不過這麼軽便的書只適合但丁等“流行作品”、可以帯到林中随処吟誦、不宜盛載柏拉図與西塞羅*4的玄思和雄辯。古典著作最好還是要有古典的形態。(p.18)
「手」では読書における「手的動作」が語られる。「書的形態必然決定了手部動作的方式」。「読不同型製的書、双手的使用方式也有所差異」(p.19)。テクスト或いは書籍の単位としての「篇」と「巻」。古来、「篇」は「竹簡」の単位であり、「巻」は絹でつくられた「帛書」の単位であると信じられてきた。しかし、最近の考古学の知見によれば、竹簡は巻かれて保存されていたものの、帛書は巻かれてではなく、折り畳まれて保存されていた(pp. 19-20)。古代希臘・羅馬の書物も「巻状的」。英語のvolume(巻)の語源である羅典語のvoluminaは「巻軸」と漢訳される。中国古代の竹簡や帛書との違いは後者には軸があること。また、読む際の動作も違う。竹簡では、縦にして、左手で左側に押しながら読んでゆく。希臘・羅馬の場合は逆に、横にして右手で未読の部分を出し、左手で既読の部分を巻戻してゆく。何時の間にか、洋の東西を問わず、codex(「書本」)が書物の主流となった。しかし、現在PC上のテクストを読む際のscrollingという動作は、まさに古代羅馬人がvoluminaを読む動作そのものなのである(p.20)*5