Accident/incident(メモ)

今福龍太「雨の到来」『図書』740、pp.46-53、2010


少し抜書き。


ポルトガル語でインシデンチincidente、英語ならincidentと呼ばれる言葉は、ふつうはごく些細な出来事、ささやかで付随的な、取るに足らない偶発事を意味している。一般的に、偶然起こるものごとや突発的に発生する事件のことは「事故」accidentと呼ばれているが、これはラテン語の”ac-cidere”に由来し、”ad”(〜に向けて)と”cadere”(落ちる)とが合体した言葉である。このときの”cadere”とは「構成された客観的な現実の外部へと不意に落下する」ことをさす、深遠な意味論を孕んだ動詞である。音楽でいう即興的な下降調cadenzaの語源もここにある。「重力」という、人間の意思的・意図的な力ではどうにも制御し得ない力の偶然の働きが、人間の前でなにものかの落下を不意に生起させる。これが「偶然」accidentという運動性によって偶然の出来事の性質が摑まえられていることはきわめて興味深いといえるだろう。客観的に構成されていると信じられる現実からの偶然の逸脱は、落下として起こるのだ。
「偶景」(incident)という語もまた、同じ語源から発生した類似語である。この場合、”in”(〜の上に)と”cadere”(落ちる)との合成語であり、「アクシデント」が落下の固有の方向性が問題になっているのに対し、「インシデント」は「どこかの上に偶発的に落ちた」という偶然のなりゆきがより強調されているといえるだろうか。アクシデントとインシデント。だがこの二つの類似語のあいだに見かけ以上の大きな意味の断絶があることを意識しながら、私はサンパウロでの日々を送りはじめていた。なぜなら、この年の三月二〇日、九・一一にたいする報復の感情に燃える好戦的アメリカはついにイラクへと侵攻し、イラク戦争の火蓋が切られたからである。私のブラジル滞在は、偶然にもこの重要な現代史の画期と重なっていた。
私は、乾いた中東の砂漠のただ中ではじまったこの出来事(accident)を、椰子樹の点在するサンパウロの日常において、日々の些細な出来事との連続性のなかで受けとめようと努めた。そうしなければ、戦争化した世界のなかに自分が生きはじめたことのリアルな意味の核心を、取り落としてしまうと考えたからである。出来事をすぐに一般化したり、観念化したり、拙速に歴史化したりするのではなく、私は戦争という現実が、私自身のそのときの日常性の微細な文法に、どのようなかたちで触れてくるかを見極めたかったのである。だが、大いなる「事件」の突然の勃発に刺戟されて、マスメディアを舞台とした人々の言説の狂騒は一気に高まっていった。限度を知らぬ熱狂的な言葉の生産と消費の連鎖は、米国や日本発のものも含めていやでも私の目に飛び込んできた。だが、大事件にたいして何かを言わねばならぬという言説への脅迫的*1なのめり込みは、現実を煽動するにせよ、批判するにせよ、上滑った言葉として日常への回帰点を失い、引用され、曲解され、攻撃され、利用され、ついには氾濫する記号の断片へと粉砕されて意味の廃墟のなかへ消えていくだけのように思われた。歴史を画するような事件(accident)の勃発にたいして人間の言説が対峙したときの、不可避の自閉と麻痺を感じとって、私は深い憂鬱に陥った。アクシデントの大きさに拮抗しようとする大仰な言葉だけが、一見勇ましげに飛び交い、深い歴史的射程を失ったまま表層の洪水のように氾濫するメディア的光景からは、細部に充ちた「世界」なるものの精確な像は少しも見えてこなかった。日々の「偶景」にこそ目をとめよ、となにものかが私に囁いていた。(後略)(pp.47-48)

(前略)声高に戦争勃発とその背景を報じるメディアが一顧だにしない、日常の極小の偶発事、雨の到来の遅延と前兆とを暗示するそんな「偶景」(incident)こそ、戦争に対峙した人間にとっての思考や感情の基点であるべきだった。出来事の因果律や人間の主体的な意思の帰結としてではない、自然現象のもつ偶有性の配合をも含んだ「偶景」を他者の顕現として受けとめ、そこから日常の薄墨色の思考をねばりづよく紡ぎだしてゆくこと。私もこのとき、雑踏をゆくブラジル人たちとおなじように、生活世界の外縁部ゆらめきながら精緻な世界像を編み上げ、それを動揺させ、また挑発する偶景(incident)の静かな力をたしかに感じていたにちがいなかった。(p.48)
さらに続く。
また、「偶然」ということで、木田元先生の『偶然性と運命』をマークしておく。
偶然性と運命 (岩波新書)

偶然性と運命 (岩波新書)

*1:強迫的?