「進化」と「歴史科学」(メモ)

承前*1

ワンダフル・ライフ―バージェス頁岩と生物進化の物語 (ハヤカワ文庫NF)

ワンダフル・ライフ―バージェス頁岩と生物進化の物語 (ハヤカワ文庫NF)

グールドの『ワンダフル・ライフ』からの抜き書きの続き。


(前略)自然を相手にする大きな学問分野――宇宙論、地質学、進化学なども含まれる――は、歴史学の道具を手に研究にあたらなければならない。その場合の適切な方法は、叙述に的を絞ることであって、通常考えられているように実験に的を絞ることではない。
”科学的方法”という固定観念は、還元することのできない歴史では出番がない。自然界の法則の定義は、空間的にも時間的にも不変であることである。条件を制御した実験を行ない、自然界の複雑さを最小限の数の一般的原因に還元するという技法は、すべての反復は同じものとして扱うことができ、研究室で正しくシュミレートすることができるという前提に立っている。カンブリア紀の水晶は現代の水晶と同じであり、珪素と酸素からなるその結晶構造に変わりはない。実験室内の一定条件のもとで現代の水晶の特性を決定すれば、その結果を用いて、カンブリア紀ポツダム砂岩からなる海沙の特性を説明することができる。
しかし、恐竜が死滅した理由や、ウィクワクシアは滅んだのに軟体動物は繁栄した理由を知りたいとしてみよう。(略)
だが、”科学的方法”という限られた手法では、気候条件も大陸の位置関係も現在とは著しく異なっていたはるか昔の地球上で大量の生物を死滅させたこの異常な出来事の核心に迫ることはできない。歴史上の謎を解明するには、歴史上ただ一度だけ起こった現象の叙述的な証拠に基づいて過去の出来事それ自体に語らせた復原を根底に置かなければならないのだ。ウィクワクシアの死滅を必然とした法則は存在しなかった。いくつかの出来事が複雑にからみあい、そのような結果を確実に引き起こしたのである。まばらに存在する地質学的記録のなかに立正に十分な証拠が幸運にも残されていれば、その原因を発見することも夢ではない。たとえばつい一〇年前までは、白亜紀の絶滅が、一個ないし何個かの地球外物体が地球に衝突したらしい時期と一致していることなど誰も知らなかった。化学的な痕跡というかたちをとった証拠が、まあにその時代の岩石中に存在しつづけていたというのに*2。(pp.483-484)

歴史的な説明は、従来の実験結果とは多くの点ではっきりと異なっている。反復による証明が問題とならないのは、説明しようとしている対象が、確率の法則からいっても時間の矢に逆行しないことからいっても、細部までまったく同じように再現されることはありえないただ一度きりの現象だからである。われわれは、物語という複雑な出来事を自然法則の単純な結果に還元して解釈しようとはしない。そういう出来事が起こるかどうかは偶発的な細事にかかわる問題である。重力の法則は、リンゴがどのように落下するかは教えてくれるが、そのリンゴがその瞬間に落下した理由と、ニュートンがたまたまそこにすわっていてインスピレーションを得た理由は教えてくれない。
固定観念の中心的要素である予測という問題も、歴史上の物語には関与しない。われわれがある出来事を説明できるのは、それが起こったあとのことである。しかし、偶発性のせいで、まったく同じ出発点から再開した場合でさえ、同じ出来事が反復されることはない。カスター将軍は一〇〇〇あまりの出来事が重なってみずから率いる騎兵隊を孤立させる定めにあったが、一八五〇年にもう一度立ち戻ってやりなおしても、モンタナを見ることはないだろうし、シッティング・ブルやクレイジー・ホースと相まみえる可能性はもっと少ない。
このようなちがいがあるため、”科学的方法”という限定的な固定観念で判断すると、歴史的説明すなわち叙述的な説明が好ましくないものに見える。そういうわけで、歴史上の複雑な出来事をあつかう科学は地位を下げ、専門家のあいだでは一般に低い表哥に甘んじている。実際、科学の順位づけがあまりにおなじみの話題となっているため、剛直な物理学を頂点とし、心理学とか社会学といったふにゃふにゃの主観的な分野を最下位に置く格づけ自体が固定観念となっているほどである。”ハード”サイエンスに対する”ソフト”サイエンス、”厳密な実験”に対する”単なる記載”といった言いかたがよく使われている。(pp.484-485)

しかし、不変である自然法則のもとでの実験、予測、小前提が歴史科学では必ずしも有効な方法ではないからといって、歴史科学は劣ってもいないし、限定的でもないし、しっかりとした結論に到達する能力を欠いているわけでもない。歴史を相手にする科学は、手元のデータが比較と観察の点でどれだけたくさんのことを語るかに基づいた、他とは異なる説明様式を採用する。なるほど、過去の出来事を直接目にすることはできない。しかし、そもそも科学とは推論に基づくものであって、見たままの観察に基づくものではないではないか。電子や重力やブラックホールを見た人間はいないのだ。
固定観念的な科学か歴史的な科学かに関係なくすべての科学に要求されることは、直接観察ではなく、確固たる検証可能性である。仮説はぜったいにまちがっているのか、それともおそらくは正しいのかという決定ができなければならないのだ(ぜったい正しいという確信は牧師や政治家にまかせておけばいい)。歴史上の出来事の奇想天外さは、異なる検証方法をわれわれに強いるが、それでも検証可能性が基準であることは変わらない。われわれは、過去の出来事の結果を記録した奇想天外で多様なデータを頼りに研究を進めている。過去を直接目撃できないことを嘆いたりしない。個々の事例を別々に検討したのでは決定的な証拠とはならないものの、すべてにあてはまる解釈は一つしか成立しないほど多岐にわたる多量の証拠によって、歴史のなかで繰り返されているパターンを探し求めるのだ。(pp.487-488)
ところで、陳新『歴史認識*3を先月読了していた。