「出来事」と「偶然」(メモ)

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20180222/1519307790に関連して、永井均『これがニーチェだ』*1から抜書き。


ただ一回しか起こらない出来事は、それをどんなにくわしく観察しても。ただ「こうである」と言えるだけで、「こうだからこうならざるをえなかったのだ」と言える根拠がどこにもない。つまり必然性を語るべき根拠がどこにもない。一般にかくかくの種類の出来事はしかじかの種類の出来事を結果として引き起こすということがいえないからである。
だが、ある意味では、すべての出来事はただ一回しか起こらない個別的な出来事である。かくかくの種類の(と言語で表現されるような)出来事一般の単なる一例でしかない出来事などはありえない。それは、それぞれの出来事が何か少しは他と違ったところがあるからではない。たとえ内容的にはまったく同じだったとしても、それぞれの出来事はまさにその出来事であることによって、他の(それでない)出来事から隔絶しているのである。
だから、その意味では、すべての出来事は偶然である。自然法則の存在などによって、たとえ部分的に必然性を語りうるような事象連関があるとしても、その連関の型がいま現に成り立っていること自体は、究極的には偶然である。それが成り立っていることに理由がるとしても、その理由が成り立っていることの理由、そのまた理由、とたどって行けば、どこかで必ず、とにかくそうである、ただそうなっている、としか言いようのないところに行き着くからである。つまり、その必然性の成立自体が偶然なのである。
またたとえ世界の創造者たる全能の神が存在するとしても――神以外のすべてはその神の意志で説明がつくが――その神自身は、究極的にはなぜか存在しているだけである。その意味で、こお究極のなぜかさは必然的に神よりも深い。
だから、全体としては、すべては、ただの偶然、ただそうであるだけのことなのである。現にこうであることに、何の根拠も、何の理由も、何の意味もないのだ。それは世界の中での偶然ではなく、世界そのものが偶然である。(後略)(pp.196−197)
これがニーチェだ (講談社現代新書)

これがニーチェだ (講談社現代新書)

See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20101105/1288980247