- 作者: ジルドゥルーズ,Gilles Deleuze,宮林寛
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2007/05/01
- メディア: 文庫
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既にhttp://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100925/1285389864でも引用したのだが、数日前にジル・ドゥルーズ『記号と事件 1972-1990年の対話』(宮林寛訳、河出文庫、2007)を読了。
1972年から1990年までのドゥルーズによる対談(インタヴュー)を集めたもの。これによって、ドゥルーズの人生の後半部における思考のエッセンスを知ることができるといえるだろう。その意味でドゥルーズ自身の言葉によって再構成されたドゥルーズ入門ともいえるのだが、この本をドゥルーズ思想のエッセンスとして使いこなせるのは、残念ながら既にドゥルーズの思考や用語法にかなり親しんだ人、彼が言及する映画、彼の思想の前提というか背景をなしている仏蘭西を中心とした現代思想等々について充分な知識を持っている人に限られるだろう。何せ、訳註というものが全然ない。
I 『アンチ・オイディプス』から『千のプラトー』へ
口さがない批評家への手紙
フェリックス・ガタリともに『アンチ・オイディプス』を語る
『千のプラトー』を語る
II 『映画』
『6×2』をめぐる三つの問い(ゴダール)
『運動イメージ』について
『時間イメージ』について
想像界への疑義
セルジュ・ダネへの手紙――オプティミズム、ペシミズム、そして旅
III ミシェル・フーコー
物を切り裂き、言葉を切り裂く
芸術作品としての生
フーコーの肖像
IV 哲学
仲介者
哲学について
ライプニッツについて
レダ・ベンスマイアへの手紙(スピノザについて)
V 政治
管理と生成変化
追伸――管理社会について
訳者あとがき
改訂版あとがき
文庫版あとがき
「ライプニッツについて」から(長めではあるが)引用;
勿論、ドゥルーズが言っていることは興味深いし、訳文も読みやすい。ただ、「襞」と地質学用語の「褶曲」はどちらも仏蘭西語ではpliだということを、何らかの仕方で示すべきだったのではないか。或いは「褶曲」という訳語を捨てて、山の場合も「襞」で通すか。
たしかに、どんなところにも襞を見ることができます。岩山や河や林のなかにもあるし、有機体のなか、それもとりわけ頭蓋や脳髄のなかに襞を見ることができるだけでなく、いわゆる造形芸術にも襞を見出すことができます……。しかし、だからといって襞は普遍だということにはならない。これを証明したのはたしかレヴィ=ストロースだったと思いますが、類似だけが差異を示すという命題と、類似を示すのは差異だけだという命題は、はっきり区別して考えなければならないのです。一方では複数の事物相互の類似が優先され、もう一方では個々の事物が差異をもち、まず自分自身との差異を示す。複数の直線はたがいに類似していますが、複数の襞は相違をあらわし、個々の襞も差異化する傾向にあるのです。ふたつの事物が同じ襞をもつことはありえません。たとえば、ふたつの岩が同じ褶曲をもつことはありえないのです。また、一個の事物の場合でも、一定した襞があるわけではない。ですから、いたるところに襞がありながらも、襞自体はけっして普遍ではないことになるわけです。襞とは「差異生成の要因」であり、「微分=差異化」のことなのです。概念にはふたつの種類があって、普遍概念と特異性を区別しなければならない。襞の概念は常に特異的です。絶えず変化し、分岐し、変容をくりかえすのでなければ、けっして有効な概念にはならないのです。褶曲をもとにして山の連なりを理解し、さらには褶曲にそって山を見つめ、山にふれてみると、それだけで山は硬度をうしない、数千年単位の時間がその本来の姿をとりもどす。つまり数千年単位の時間は永続性ではなく、純粋状態の時間なのであり、その内実は柔軟性なのだということが明らかになるわけです。動かないかに見えたものがくりひろげる不休の運動ほど、人を強く当惑させるものはありません。ライプニッツなら、無数の微粒子が襞となって舞う、と表現するでしょうね。(pp.326-317)