承前*1
今福龍太「雨の到来」(『図書』740、pp.46-53、2010)の続き。
(前略)私のなかには、理由のない確信があった。それは、真の歴史とは権力をめぐる勝利と悲劇の交替する過去の大仰な絵巻などではなく、もっとつつましい、日常の小さな悲嘆と歓喜の交錯のなかに現象するものではないか、という直観である。歴史が、過去と未来をつなぐ物語やロジックのなかにではなく、まさに「現在時」において救済しうる深みをもった実体として存在しうる可能性を、私はこのとき強く意識していたのである。(略)日常の偶景(incident)に注意を払いながら、私と他者が、私と場所が、曖昧な幅をもった多義的な界面で交差する時の点景だけをひたすら記録してみること。それは、あたかも現実という湖に深く沈ませた錘のように、水底でゆっくりと不穏に揺れつづける。その微妙な揺れを絶えず感じつづけることで、私たちは戦争を戦争として仰々しく語る態度から身を引き離し、歴史なるものの消息を、異なった時間性のもとで捉えることができるはずだ。私はそう信じていた。
偶有性に充ちた時の不意の訪れにむけて待機すること。それはおのずから、脅迫的に前進するクロノスの直線的時間を離れ、カイロスの啓示が閃き、ホーラの循環する季節が巡り、アイオーンの永遠が統べる別種の時間性へとわたしたちの身体と感覚を拓いてゆくだろう。忘却された歴史のカタストロフとしての廃墟のなかに、未来へとつながる隘路として出現するメシア的時間(ベンヤミン)も、そこに見いだされるかも知れない。戦争の遠い谺を聴きながら受けとめたブラジルの偶景の数々は、いまもなお私の体内深くに留まりつづけている。歴史の表層に楔を打ちこみ。現実感覚を麻痺させて去ってゆくだけのアクシデントと違って、インシデントは深い浸透力と持続性をもって、わたしたちの内部に謎のような予兆として留まりつづけるものだからだ。(後略)(pp.49-50)
ミシェル・セール『五感』の引用(pp.50-51)。「偶有性」(contingence)=「共-接触」(con-tingence);
(前略)不意の雨の到来が、私の皮膚に隠されていた、偶然にたいする鋭い感受性を呼び出した。自然や事物がそのときどきに偶発的に示す、予兆を孕んだ偶然の性質としての「偶有性」contingencyへの関心は、このとき私の皮膚に宿ったというべきだろうか。皮膚という身体の表層が、むしろ出来事の深い道理を感じとるための探知器(censor)として、未知の力を発揮した。その探知器を作動させる引き金こそ、私の皮膚とともにすべての人と風景をあまねく濡らす、雨滴の柔らかな来訪であった。(p.50)
少し前に、「「進歩」に対する批判もちゃんとやらなくてはいけないのだけれど、今は余裕なし」と書いた*2。この抜書きは「進歩」(或いは「進歩主義」)への批判の端緒だというつもりもある。
皮膚は偶有性=接触(contingence)の多様体である。すなわち、皮膚において、皮膚によって、世界と私の肉体、感じるものと感じられるものが接触し合い、皮膚はこの両者の共通の縁をなしている。偶有性contingenceとは、共通の接触を意味するのだが、世界と身体はそこにおいて切り離され、そこにおいて互いに愛撫し合う。自分の肉体が住んでいる場所を環境と呼ぶのを私は好まず、諸物がそれぞれの間で混合しているという言い方の方を好むのだが、私の肉体もその例外ではなく、私は自分自身を世界のなかに混合し、世界の方も私に混合している。