蛸焼からチカラへ

承前*1

http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2010/11/post-7cd1.html
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2010/11/post-669f.html
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20101120/p1


軍隊や警察は「暴力装置」ではなく、暴力装置といえるのは「国家権力」それ自体のみなのだという。また、「タコ焼き器」と「タコ焼き」は違うともいう。はてさて。この比喩においては、「タコ焼き器」=「暴力装置」=国家権力、「タコ焼き」=「暴力」=軍隊や警察ということになるらしい。でもそうか。タコ焼き屋の店或いは屋台という全体からすれば、「タコ焼き器」というのはその一部にすぎない。店には、「タコ焼き器」のほかに、材料を保管する冷蔵庫とかレジスターとか、さらには照明とかある筈なのだ。こうした店全体こそが国家であり、「タコ焼き器」というのはタコ焼き屋の経営目標を達成するための手段(装置)のひとつでしかない。ということで、「タコ焼き器」と「タコ焼き」は違うという論は納得できないというか、それ以上によくわからない。これについては、最後に再度ちょこっと触れることになるとは思う。
さて、ハンナ・アレントの「暴力について」だが、その特徴のひとつとして、「暴力(violence)」を論じるに際して、チカラの存在論を思考し、「暴力」をチカラの特殊な様態として位置づけていることだろう。世界に充満する諸々のチカラは取り敢えずforceと呼ばれ、それが体力や脳力として個人に内在している場合はstrengthと呼ばれる。そうしたstrengthを有した人々が集って集団を形成する際に間‐主体的に生起するチカラが権力(power)だということになる。暴力(violence)は(個人的・集合的)主体が或る目的達成の意志(will)を持って、その目的達成のための手段として行使するチカラだということになる。台風で家を吹っ飛ばされても、それは暴力によるものではない。風は意志を持たないからだ。まあ水伝*2を信じるならば、洪水で家を流された場合は暴力によるものだということになるだろうけど。水伝は措いておいて、テロリストの攻撃とか某国による空爆で家を吹っ飛ばされたなら、それは暴力によるものだということになる。この場合には、家を壊したのは(個人的・集合的)主体が或る目的達成の意志(will)を持って、その目的達成のための手段として行使したチカラだからだ。ところで、アレントは、チカラの特殊な様態としての暴力を拒絶するといったぬるいことを言っているのではない。それどころか、そうした意味での暴力は、アレントからすれば、人間存在に不可欠のチカラであるとも言える。彼女は『人間の条件』で、活動的生(vita activa)を構成する3つの活動様式(activities)、つまり労働と仕事と行為を提示したが、暴力は仕事に、権力は行為に対応するチカラであるといえる。職人がテーブルを作る場合、先ず第一に木を鋸で切り倒さなければならないし、さらにハンマーで釘を打つ、鑢で表面を磨くという暴力を行使しなければならない。アレントが批判するのは、暴力それ自体というよりも、モノに対して行使されるべきチカラを人間或いはその集合態である社会に対して行使するというカテゴリー・ミステイクに対してなのだ。

Crises of the Republic: Lying in Politics; Civil Disobedience; On Violence; Thoughts on Politics and Revolution

Crises of the Republic: Lying in Politics; Civil Disobedience; On Violence; Thoughts on Politics and Revolution

The Human Condition

The Human Condition

今回の「暴力装置」論争に関連して、http://d.hatena.ne.jp/catisgood/20101121/1290326392を読んだ。神山茂夫にまで遡っての文献考証に取り敢えずはご苦労様と申し上げたい。さて、「装置」の思想家ということで誰でもが思いつくのはルイ・アルチュセールだろう。「国家イデオロギー装置(appareil ideologique d’Etat=AIE)」論。彼は「暴力装置」つまりappareil violentという言葉は使っていないようだ。代わりに使っているのは、appareil repressif d’Eatつまり「国家抑圧装置」。
冒頭のfinalvent氏による「暴力装置」=「国家権力」論に戻るが、もしそうだとしたら、一国の範囲で論じる限り、「装置」に複数形はありえない筈である。また、単数だとしても、他の「装置」の存在を予想させてしまう不定冠詞もありえない。しかし、アルチュセールは「諸装置(appareils)」という複数形を使っているし、また「ひとつの装置(un appareil)」という不定冠詞付きの表現も使っている。つまり、「国家」≠「装置」。
因みに、アルチュセールの論文はウェブで読める;


Louis ALTHUSSER “Idéologie et appareils idéologiques d’État. (Notes pour une recherche)” http://classiques.uqac.ca/contemporains/althusser_louis/ideologie_et_AIE/ideologie_et_AIE_texte.html