パロディ、何の?

http://d.hatena.ne.jp/charis/20100627


『創世記』におけるアブラハムによる息子イサク供儀のエピソード;


>イサクは父アブラハムに呼びかけた、「父よ」。彼は言った、「子よ、何か」。イサクは言った。「ここに種火と薪はあります。でも、全焼の供犠となる羊がいません」。アブラハムは言った、「子よ、全焼の供犠となる羊は神が見いだされよう」。二人は一緒に進んで行った。

 彼らは神が示した場所にやって来た。アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べた。そして、息子イサクを縛り、祭壇上の薪の上にのせた。アブラハムは手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。すると、天からヤハウェの使いが彼に呼びかけて、言った、「アブラハムアブラハム」。彼は言った、「はい、ここに」。使いは言った、「少年に手を伸ばすな。彼に何もしてはならない。いま、分った、あなたが本当に神を畏れる者である、と。あなたは私のために息子さえ、あなたのひとり子さえ惜しむことをしなかった」。

 アブラハムが目を上げて見ると、ちょうど一頭の雄羊が藪に角を取られていた。アブラハムは行って、その雄羊を捕らえ、それを息子の代わりに全焼の供犠として捧げた。

それに対するキエルケゴール『おそれとおののき』における解釈――「彼*1はなんら非真実(いつわり)を言っているのではない。しかしまた、彼は何かを言っているわけでもない、なぜなら彼は異邦人の言葉で語っているのだからである」。さらに、

しかしアブラハムを理解することは何人にもできなかった。それにしても、彼は何をなしとげたというのであろうか? 彼はどこまでも彼の愛に忠実であり続けたのだ。しかし神を愛するものは、涙を必要としない、驚嘆を必要としない、彼は愛において苦悩を忘れる。いや、もし神みずからがそれを思い出させたもうのでなければ、彼が苦痛に悩んだことを夢にも感じさせるような跡を残さないほど完全に、彼はそれを忘れたのである。なぜなら、神は隠れたことを見たまい、苦悩を知りたまい、涙を数えたまい、そして、何ものをも忘れたまわぬからである。
この中の「神は隠れたことを見たまい、苦悩を知りたまい、涙を数えたまい、そして、何ものをも忘れたまわぬからである」を巡って、charis氏曰く、

アブラハムが苦悩と動揺を見せなかったことも含めて、さすがにキルケゴールは見事な解釈を提出している。しかも、最後の文章はマタイ伝から取られており、生贄に差し出したわが子を救い出すというイサク奉献の物語を、はるか後世のイエスの復活と重ねているようにも読める(デリダ『死を与える』p194)。だが、「苦痛の痕跡も残さないほど完全に」アブラハムの内面のドラマが遂行されてしまっているならば、アブラハムの言葉は、「異邦人のそれ」であるだけでなく、事態を完璧に予言するかのように響く「パロディー」と紙一重のところにあることも事実なのである。
デリダの言葉だと、charis氏が参照している頁の次の頁の、

ある瞬間に、犠牲はほとんど成就される。なぜなら、瞬間だけが、時の非−経過だけが、殺害者の振り上げられた手を殺害そのものから隔てているからだ。だから絶対的な切迫という捉えがたい瞬間には、アブラハムはもはや決断したことを変えることができず、またそれを中断することさえできない。したがって、この瞬間に、つまり決断を行為から隔てることさえないような切迫において、神はアブラハムに息子を返し、至高者〔=主権者〕としての絶対的な贈与として、犠牲をエコノミーの中に再び組み入れようと決断する。そのときこの絶対的な贈与は報酬に似たものである。(p.195)
が重要ではなかろうかと思いつつ、素朴な疑問が離れない。「パロディー」、では何のパロディなのか。パロディは反復。それも真面目な反復ではなく、〈擬き〉としての、コンテンツが空洞化されて形式が前面に飛び出た反復。「事態を完璧に予言するかのように響く」とある。思い出すのは『創世記』のLet there be lightという神の言葉。神の場合、意志と行為、言葉と現実の間に時間的なものを含む一切のずれはない。アブラハムの「全焼の供犠となる羊は神が見いだされよう」は世界を創造する神の意志(言葉)のパロディ(反復)ということになるのか。
旧約聖書 創世記 (岩波文庫)

旧約聖書 創世記 (岩波文庫)

死を与える (ちくま学芸文庫)

死を与える (ちくま学芸文庫)