「歴史修正主義の完成形態」?

http://d.hatena.ne.jp/Talpidae/20100528/p1


NHKの「大河ドラマ」は「歴史修正主義の完成形態」かもという話。曰く、


 時代考証が軽くなれば軽くなるだけ、そこで展開する物語の時代的な必然性はなくなり、現代のドラマやSFを見ているのとさしたる違いはなくなる。エンターテインメントが優先して、時代考証がおいていかれるとき、それをあえて歴史物とか大河ドラマと銘打つ意味がどこにあるのかよくわからない。黒澤が『七人の侍』を撮るときにどれだけ時代考証にこだわったかなんてことはもう過去の話なのだろうか?。

 しかも、それがあたかも歴史であるかのように語られ描かれていくとき、「新しい教科書を作る会」よりも何よりも、「歴史修正主義」が完遂されているということにはならないだろうか?それとも新しい「神話」の創出?いずれにせよ、「この話はフィクションであり、実在の人物とは必ずしも関係がありません」とでも表記しておけばよいのに。

問題なのは「大河ドラマ」がドキュメンタリー的な要素を組み込んでいるということだろう。最近の「大河ドラマ」はドラマ部分のほかに、歴史用語の解説とか関連の観光案内を組み込んでいる。こういう親切な(?)趣向は昔はなかった。何時頃から始まったのかわからないが、これがフィクションとリアル(歴史)の間の裂け目(シーム)を隠蔽して、この2つをシームレスに繋げてしまう効果があるかも知れない。
「ミズモグラ」さんは「時代物」と「歴史物」の差異についても言及しているが、そのどちらにおいても重要なのは、ファッションとか身ぶりの準位における「時代考証」だろう。特に前者において、それは嘘のもっともらしさ(plausibility)を可能にする真実として機能する。また、その「時代考証」が無視されていると私たちが感じるとき、私たちはrelevance theory(See Sperber & Wilson Relevance: Communication and Cognition)を発動して(?)そこに演出上の意図的な効果を読み取る。例えばデレク・ジャーマンの『カラヴァッジオ』とか。ただ、〈正しい〉「時代考証」(の少なくとも重要性)が共有されていないとしたら、演出上の効果もというか、折角の〈嘘〉も無意味になってしまうわけだ。「ミズモグラ」さんが危惧しているのはその域の話なのだろう。
Relevance: Communication and Cognition (Language and Thought Ser)

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カラヴァッジオ [DVD]

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See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090801/1249099215 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090803/1249241190