承前*1
http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20100324/1269436846
古寺多見さん、ご教示ありがとうございました。「仏蘭西」というのは私の記憶違いだと思います。私が言っていたディスクはUri CaineのWagner e Veneziaだろうと思います。古寺多見さんが示している日本盤は廃盤のようですが、米国盤はまだ出ているようです*2。
Uri Caineについては、
http://www.uricaine.com/
http://en.wikipedia.org/wiki/Uri_Caine
さて、絓秀実、福田和也、柄谷行人の座談会「アナーキズムと右翼」(『批評空間』III-4、2002、pp.6-28)を読んでいたら、福田和也がワーグナーについて発言していたので、少しメモ;
福田氏はワーグナーが「パリに亡命した」と言っているが、実際に彼が亡命したのは瑞西。
(前略)ドレスデンなどドイツの革命は三月になりますが、この中でワーグナーが、アナーキズムとナショナリズム、つまりバクーニン的な急進的共同体主義と諸侯領の解体によるドイツの統一を一緒に掲げて、ドレスデンの都市政府と闘う。革命が行き詰まって彼がパリに亡命した後、楽劇を通じての世界の変革という審美的革命のイメージが完成するわけです。逆に言えば、いわゆるワーグナー主義は、国民国家的革命と共和的アナーキズムそれぞれの挫折を折衷する形で成立するわけですね。(p.13)
また、
「暴力がベルクソン的な形で露呈してくる」について。これは直接はベルクソン自身というよりもベルクソンに影響を受けたソレルの思想に関わっていると思われる。生命の表現、「生の肯定」としての「暴力」。柄谷行人氏の発言から;
(前略)一般理性や世界精神のようなものと武力が繋がることができなくなり、世界理性とか国際法にのっとった戦争が機能しなくなったとき、暴力がベルクソン的な形で露呈してくる。(略)ワーグナーはこの顕著な例だと思います。彼はドレスデンで革命政府ができると一面思っていたかもしれないけど、バクーニン的に反乱を起こして破壊すること自体に意味を見出していたわけですね。そしてその後始末でひどい目にあったものだから、それを美学化していくわけです。ワーグナーの資本主義批判を見ていくと、非常にナマなプルードン主義者という印象を受けます。「貨幣から価値体系を奪回しなければならない」とか言っていますし、時計的な時間と資本的な金銭というのを一緒に重ねて、「近年の音楽はストップウォッチ的でけしからん」というような話と、「労働工程の時間管理はけしからん」というような労働の本来性にかかわる話が重なって出てきます。ただ、ここで外面的にただ体制の破壊を目指すのではなく、競争*3の中で体制を変えるのだという時に、彼の楽劇といった構想もでてくる。よく言われているみたいに、楽劇というのはナチズムに一直線で繋がっていくものです。つまり暴力というのは、ルソー的なものが通用しなくなった時に、つまりは一般理性が表象できなくなった時に、現われてくるものだと思います。(後略)(pp.19-20)
ソレルの『暴力論』によれば、暴力というのは、フォルス(force)に対するヴィオランス(violence)として肯定されるものでしょう。つまり強制に対する反抗としての暴力は肯定される。もちろん、彼はゼネストのことを言っているわけです。ゼネストで、資本も国家もストップする。そうしたゼネストこそ、生の肯定である。しかし、これは瞬間的なものでしかない。こんなもので、資本制国家が解消されるはずがなく、むしろネーションへの吸引を通して、そこに再回収されてしまう。それがファシズムではないか。(p.20)

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