「ゆとり」は悪くない(メモ)

中沢良平「「ゆとり教育」は正しかった」http://agora-web.jp/archives/1657515.html


所謂「ゆとり教育*1というのは一般には戦後史の汚点みたいに扱われており、また或る世代に対するスティグマとしても機能している。
偶々「ゆとり教育」を擁護した2015年のエントリーに出くわしたので、ちょっとメモ。中沢氏は小学校の教員であるらしい。その主張は悪いのは「新学力観」であって、「ゆとり教育」ではない。


分数ができない大学生は、ゆとり教育の問題ではない。分数はゆとり教育でも教えていた。問題は、「問題を解くことができる」という学習内容の「習熟」を否定した「新学力観」である。この「新学力観」は、「習熟」よりも「興味・感心・意欲」に重きをおく、つまり「姿勢が大事」という価値観である。語彙や計算等の習熟は「つめこみ」だから問題だ、という風潮を学校に蔓延させた。

新学力観とは、1989年改訂の学習指導要領で採用された学力観である。知識や技能を子どもたちにひとしく身につけさせるのではなく、子どもたち自らがものを考え、社会の変化に対応できる能力の育成を目指すという考えである。つまり「ゼロから解き方を考えさせる」のを目指す。九九を発見することに血道をあげ、九九の習熟は「つめこみ(=旧学力観)だからだめ」とした価値観が、教育現場をゆがめ、いわゆる「ゆとり世代」の学力低下を招いた原因だと思われる。

ゆとり教育」が転換されてしばらくたった。問題は、脱「ゆとり教育」はなされたが、「新学力観」が捨て去られていないことだ。大幅に増えた学習内容を、「新学力観」で指導すれば、「教科書が厚すぎて終わらない」消化不良になるのは目に見えていた。

「新学力観」とは、具体的には「問題解決学習」であり、「ゼロから解き方を考えさせる」という聞こえのよい施策ではあった。しかし、これは問題があった。学力が平均もしくは平均以下の児童生徒に、数学でいう定義を発見せよという崇高な課題を提示したからだ。また、「練り上げ」と呼ばれる「ディベート」のような学習形態を見ている大人は、子どもたちの懸命のやりとりに感動を覚える。しかし、テストをすると、九九はおぼつかない、くり上がり・くり下がりはできない、通分・約分はできないという状況になる。「解き方を暗記して繰り返す」のは、「旧学力観」だからだ。テストができているからといって、ほんとうの理解ができているとは限らない。だが、テストができていなければ、最低限の理解もおぼつかないということは言える。


たしかに、あるレベル以上では、「習得」だけでは役にたたないだろう。私が問題だと思うのは、「習得」を「古い既習内容」と切り捨て、平均的な労働者となる子どもたちが身につけるべき技能を身につけさせないまま、社会に放りだしてしまったという点だ。創造的な発想は今後ますます必要だ。しかしそれを全員に求めるのはむずかしい。

私は、単純に教育内容の削減した「ゆとり教育」自体はよかったと思っている。「つめこみ」で消化不良を起こしてしまっていた世代も確かにあるのだ。よほどの仕事でない限り、「集合」など使わない。「集合」を小学校でつめこもうとした世代もあったのだ。実際に教育現場を見ると、教師はどうしても「できない子」に引っ張られる。小学校も高学年になればクラスの過半が勉強を理解してないということもありえる。となると、授業の進捗に大きな影響を与える。学級の運営的にも。成績下位の子どもを手当しながら、上位の子どもにも適当な課題を見繕ってあげる「ゆとり」があったほうがよかったと思うのだ。

そういえば、1990年代後半に「ゆとり教育」の是非が盛り上がったとき、1980年代まで問題にされていたのが〈落ちこぼれ〉についてだったということは、何故か等閑視されていたな、ということを思い出した。