Derrida contre Habermas(Memo)

http://d.hatena.ne.jp/kmiura/20090105で、


三島憲一ハーバーマスデリダのヨーロッパ」『早稻田政治經濟學雑誌』362(2006年1月)、pp.4-18
http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/6649/1/72448_362.pdf


が紹介されている。
ダウンロードはしたけれど、まだ読んではいない。ただ、kmiuraさんが引用している箇所に関しては、馬鹿野郎、何言ってやがるんだ!という感想を持った。
さて、デリダの「他の岬」でハーバーマスを直接的には名指さないものの、換喩的に示して批判している箇所をメモしておく;


(前略)警戒すべきはただ国家の言説に対してばかりではない。最高の善意からのヨーロッパ的企図、一見して明白に多元主義的で、民主的かつ寛容なヨーロッパ的企図でさえ、「精神の制覇」をめざすこの容赦なき競争においては、媒体=メディア、討議の規範、言説のモデルといったものの同質性を賦課する=押しつける試みになりかねない。
こうした試みが、新聞・雑誌の企業連合、ヨーロッパ的規模の強力な出版社などを通じて行われていることはたしかである。今日、これらの企図は増加=多様化しており、われわれが注意を怠らないという条件のもとでなら、この事態を慶んでもいいだろう。というのもわれわれは、文化的権力掌握の新たな諸形態に抵抗するために、それらを見破るすべを学ばねばならないからである。上の試みはまた、新しい大学空間や、とりわけある哲学的言説を通じて行われうる。この種の言説は、透明性(「透明性」は「コンセンサス」とともに、(中略)「文化的」言説の主要語=呪文〔maitres mots〕の一つである)や、民主主義的討議の一義性や、公共空間におけるコミュニケーションや、「コミュニケーション的行為」といったものを擁護するという口実のもとに、こうしたコミュニケーションに好都合だとされている言語モデルを賦課する=押しつける傾向をもっている。可知性=理解可能性、良識、常識=共通感覚〔sens commun〕、民主主義的モラルといったものの名において語ると主張しながら、この種の言説は、まさにそのことによっていわばおのずから、当該の言語モデルを複雑化するすべてのものの価値を貶め、当該の言語理念を屈折させ、重層決定し、理論的かつ実践的に問題化しさえするすべてのものを嫌疑し、抑圧する傾向をもつのである。分析哲学やフランクフルトで「超越論的遂行論」〔pragmatique transcendentale〕と呼ばれているものを支配しているある種の修辞的規範は、なによりもこうした関心をもって研究されねばならないだろう。これらのモデルは、制度的権力とも通じ合っているのだが、こうした制度的権力はイギリスとドイツだけにあるわけではない。同じ名のもとに、あるいは別の名のもとに、こうした制度的権力はフランスを含む別の場所にも現前し、協力に作用している。ここで問題になっているのは、まるで暗黙の契約でもあるかのように共通な一つの空間であって、この空間は、報道、出版、メディア、大学、大学における哲学にまで広がっているのである。(高橋哲哉訳、pp.42-43)
他の岬―ヨーロッパと民主主義

他の岬―ヨーロッパと民主主義

また、ハーバーマスの影響を受けたdeliberative democracyに対する同様な問題意識からの批判としては、Iris Marion Young*1 “Communication and the Other: Beyond Deliberative Democracy” (Intersecting Voices: Dilemmas of Gender, Political Philosophy and Policy, pp. 60-74)を取り敢えず参照されたい。
Intersecting Voices: Dilemmas of Gender, Political Philosophy, and Policy

Intersecting Voices: Dilemmas of Gender, Political Philosophy, and Policy

さて、「デリダを通ってしまうと、歴史的真実とか言えなくなる」という東浩紀の言。これは要するに修行が足りないということなのだろう。デリダ的に「歴史的真実」を言う仕方を工夫せず、習得していないということなのだろう。たしかデリダは(『理想』のデリダ特集号に掲載されたインタヴューにおいてだと思ったが)接続法で語ることを心がけていると言った筈。

決定不能性と責任*2について、『他の岬』からの引用。以下に引用する部分は「ヨーロッパの文化的同一性」が問題になっている部分で語られているもの。


(前略)中央集権的覇権(首都)が再構成されないように警戒しなければならないとしても、だからといって、諸境界つまり辺境〔marche〕や周縁〔marge〕を増殖させてはならないのである。少数派の諸差異、翻訳不可能な諸方言、民族=国民〔nation〕の対立、固有言語の排外主義を、それ自体としては養わないようにしなければならないのである。責任=応答可能性は、今日、これら二つの矛盾した命法のどちらをも放棄しないことにあるとわたしには思われる。したがって、首都と無首都、首都と首都の他者、こういった二つの命法、二つの約束、二つの契約の同盟を書き込む、身振りや言説や政治−制度的実践の発明に努めなければならないのだ。これは困難なことである。二つの矛盾した法に責任を負うこと〔repondre de〕であったり、二つの矛盾した命令に応答すること〔repondre a〕であったりする責任=応答可能性〔responsabilite〕を考えることは、不可能でさえある。たしかにそうだ。しかしまた、不可能なものの経験でないような責任は存在しない。(略)責任はそれが可能なものの次元において果たされるとき、ある傾きに従いプログラムを実行しているにすぎない。それは行為を適用の帰結に、知あるいは技能=行為知〔savoir-faire〕の適用にしてしまい、道徳と政治をテクノロジーにしてしまう。それはもう実践理性や決断には属さない。つまり無責任になり始めているのだ。(後略)(pp.34-35)

See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070418/1176911089