丸山/デリダ(メモ)

http://d.hatena.ne.jp/vir_actuel/20080204/1202136726


田中希生という方が丸山眞男『日本の思想』から興味深い一節を引用している;


 本来、理論家の任務は現実と一挙に融合するのではなくて、一定の価値基準に照らして複雑多様な現実を方法的に整除するところにあり、従って整除された認識はいかに完璧なものでも無限に複雑多様な現実をすっぽりと包みこむものでもなければ、いわんや現実の代用をするものではない。それはいわば、理論家みずからの責任において、現実から、いや現実の微細な一部から意識的にもぎとられてきたものである。従って、理論家の眼は、一方厳密な抽象の操作に注がれながら、他方自己の対象の外辺に無限の広野をなし、その涯は薄明の中に消えてゆく現実に対するある断念〔強調は丸山、原文は傍点〕と、操作の過程からこぼれ落ちてゆく素材に対するいとおしみがそこに絶えず伴っている。この断念と残されたものへの感覚が自己の知的操作に対する厳しい倫理意識を培養し、さらにエネルギッシュに理論化を推し進めてゆこうとする衝動を喚び起すのである。(『日本の思想』岩波新書、60ページ)
これに対して、田中氏は

 実際には、丸山は、構造主義的な観点、もっといえばデリダ的な観点から非難されてきた。それは、ぼくがいまさきにうえで行なったようなやり口で、である。だが、丸山の議論の構造は、ぼくらが思っている以上に、もっとデリダ的である。大胆な言い方をすれば、印象はずいぶんちがうが、丸山とデリダは、それほどちがっているわけではない。現実について「断念」しつつ、「いとおしみ」と「衝動」をもつ、という、この学者のスタイルは、テクストと外部とを遮断しつつ、その断絶を受け容れたうえで、脱構築を試みようとしていたデリダのスタイルと、同じである。
とコメントする。
この引用された部分は、丸山眞男ウェーバー(特にその「客観性」論文)を踏まえた真っ当な社会科学者であることを示している。しかし、それは「デリダ的」だろうか。デリダが前提とする諦念と丸山的「断念」とは違うだろう。全ては構築されてしまっているという諦念。にも拘わらず、注意深く読むことによって、テクストが自らを脱構築することを発見し、それを肯定的に見守ること。脱構築は「試み」るものではなく、se deconstruireという仕方でしか生起しない。これについては、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20071016/1192508056で言及した梅木達郎の議論も参照されるべきだろう。また、一見「テクストと外部とを遮断」するように見えるデリダの所作は内部/外部の決定不能性を可視化するための操作だともいえるだろう。専ら内部に目を注ぐことによってしか、その内部が既に外部の浸透を受けていることは指示できない。これについては、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080210/1202666179で言及したinvaginationを参照のこと。
さて、示された丸山眞男の脱「ヘーゲル」化または「デリダ」化;

 とはいえ、そうしてヘーゲル主義的に丸山を読んでも、おもしろくもなんともない。「断念」という語の強調を、極大まで拡大してみよう。そうすれば、この発言は、ただちに、もっとデリダ的なものに変身する。テクストの外部について、理論家は、「断念」せねばならない。そうであるがゆえにこそ……というわけだ。

 かりに、ヘーゲル主義的な、理論と現実の弁証法を前提しないでこれを読むなら、丸山は、けっして、この議論において、理論家の「エネルギッシュ」な「衝動」の根拠を明かしていない。この理論家は、はじめから理論が現実に到達するのではないことを知っていながら、にもかかわらず、そうした理論化を行なおうとする。したがって、この「衝動」は、彼をすこしも前進させない「衝動」なのであるし、じつは、この丸山の議論は、もっと奇妙である。おそらくは、丸山が、心のどこかで無自覚のうちに認めていたような、こうした無根拠な「衝動」において、読むべきなのだ。……

これについては、Bonnie Honigのいうremainders*1を想起する。但し、Honigが示しているのは、remaindersというのは実体としてあるのではなく、或る操作の効果として見出されるということであるが。10が3で割り切れないということは実際に割り算という操作をしてみなければわからない。
日本の思想 (岩波新書)

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社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」 (岩波文庫)

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