http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080427/1209224631に対して、
というコメントをいただく。
? 2008/05/01 22:09
・奨学金問題に絡め、光市被害者を「卒業したら間髪いれずに孕んでそのままぜんぜん働かず、挙句の果てに平日の昼間から家でぶらぶらしていたため殺されちゃう」
・拉致問題で「「めぐみちゃん」はちゃんと育って、結婚までして、あまつさえ子供まで儲けています。
私の目から見ると信じられないくらい幸福です」「いつまでもいつまでも「めぐみっちゃん」とか不幸面してられるアンタが心底うらやましいよ」と被害者・家族を愚弄
・拉致被害者を「側溝に落ちた10円」にたとえる
・昭和天皇に「本心は戦争に反対だったのなら焼身自殺でもなんでもしていさめたらよかったですね」
・「子供の数と母親の教育レベルについては、統計的に有意な負の相関」
・自殺した大臣にたいし「せっかく死んでくれた」などと死者に鞭打つ発言
・年収300万円の人間は「食べ残しの皮と種」
・批判的なコメントをした訪問者に「知恵遅れ」などと発言
・神戸市六甲アイランドを「貧民窟」と表現
・茨城県愚弄
・中越沖地震は10人しか死んでないからたいしたことない
・ホテルを名指しして「子連れで入れる田舎のラブホ」呼ばわり
・東京の自転車をひとくくりにし、カラスより迷惑と罵倒
・大学の仕事なんてくだらない。適当に病気になって生活保護を受けたい
・道路交通法違反(高速で180km)
・研究費への助成金(不正使用疑惑)
・「小学校は迷惑施設」児童を「そのうち万引きをしたり泥棒をしたり殺人をしたり」呼ばわり
他多数。これが言論?
お答えします。「言論」です。それ以外の何ですか。「言論」という言葉を分解すれば、言う、論じる(或いはあげつらう)ということになります。「言論」というのはそれ自体でそんな高尚なものでしょうか。〈言う、論じる(或いはあげつらう)〉というのは誰が行なってもいい、そこらぢゅうにあり溢れているものじゃないでしょうか。勿論、「?」さんが列挙したことどものその多くにについて、私は「愚劣」だと思います(それは既に明言しています)。 また、これと同様に(或いはそれ以上に)「愚劣」な「言論」があり溢れていることは事実で、私もそんなものどもを積極的には読みたいとも思いません。それに対しては、もし対抗するとしたら、やはり「対抗」的な言論を行なえばいいんじゃないでしょうか。それが瀬尾佳美という人以上に「愚劣」なのか「愚劣」ではないのかはわかりませんが。そういう「言論」は(blogなど誰でも簡単に開けるので)そういうところで行なえばいいし、そうでなくても2ちゃんねるでもMixiでも何でもご自由にという感じです。私が批判したのは、所属先の大学に電話を殺到させるというやり方であり、また大学側がそれに安易に迎合したということです。また、再度言っておきたいのは、瀬尾さんは恥を掻くということで責任を取っており、権力者でも何でもない私立大学の一教員にこれ以上どんなことを要求できるのかということです。
とか書いていたら、今さっき「?」さんから追加のコメントをいただいたようだ。わざわざ恐縮です。私は全然気にしていません。というか、気にするような内容のコメントはしかとする。それだけです。コメント欄は一応全ての人に開放してあるので、完全なスパム以外は拒否することはありません。また、「?」さんのコメントは、あの人こんなこともいってたの? という意味で、情報量が豊富で、その限りでは有益でした。というか、私が瀬尾さんのblogを読もうとしたら、既に非公開モードになっていました。
さて、小田亮先生に言及していただいた*1。このエントリーを読んで思ったのは、レヴィナス(小田さん)が「倫理」に対立するところの「正義」と言っているのは、私が(より親しんでいる)デリダ的な用語法では「法」ということになるのだろうとということだ。デリダがいう「法」というのは、小田さんがいう
という「計算可能性」のロジックが支配する世界であろう。それに対して、デリダは『法の力』で、「正義にもとづく現実的行為は常に、特異性、つまり取り替えのきかないさまざまな個人・グループ・現実存在、あるいは他者または他者としての自己と、唯一無比の状況のもとで関係せねばならない」(p.40)と述べている。また、「正義は、計算不可能なものについて計算するよう要求する」(p.39)とも。私見によれば、デリダのいう「正義」とは、「法/権利の外または法/権利のかなたにあ」る(p.34)といっているし、「法」からは零れ落ちてしまう呟きのようなものとして現象するのではないかと思う。だからこそ、「正義に返すべき最初の正義とは、正義の言い分を聞くこと、正義がどこからやって来て、われわれに何を要求するのかを理解しようとすることである」(p.46)とも言われるのだろう。
公正な裁きによる正義においては、比較不可能な個の固有性を消去して比較不可能なものを比較する必要があります。比較することなしに公正さは生まれません。先の光市母子殺害事件の判決に関して、瀬尾佳美さんが自身のブログで、「最低でも永山基準くらいをラインにしてほしい。永山事件の死者は4人。この事件は1.5人だ」といったことを書いたことが問題になりました(私はそのブログを直接読んでいません)。それを非難する人たちは、どうやら「子供の命を0.5人と数えている」ことを問題視しているようですが、とすれば、子供を1人と数えれば、非難しなかったということなのでしょう。つまり、その非難は、固有性・比較不可能性をもつ死者を数えて比較すること自体に向けられてはいないわけです。正義=裁きにおいては、そのように数えて比較することが当たり前のことであり、その意味では「0.5人」という数えることも(当否については意見があるでしょうが)、「正義」(=公正さ)にとってはなんら奇妙なことではないのです。しかし、「倫理」にとっては、「子供を1人」と数えようと、正義のためには不可欠な、数えて比較すること自体がそもそもふさわしくないのです。
ところで、デリダがレヴィナスによる「正義」の定義として『全体性と無限』から「まっすぐに(droiture)顔を迎え入れる」ことというのを引いていること(p.52)も申し添えておきたい。
- 作者: ジャックデリダ,Jacques Derrida,堅田研一
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