漢字から言語へ?

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091212/1260650699に対するブクマ・コメントから少々。
「一部の人が戦後の一時期「漢字廃止運動」に躍起になったのは、西洋にあった「カトリック教会によるラテン語を用いた抑圧」っていう図式を、無理に日本に当てはめたかったからじゃないのかな?」という指摘*1。「ラテン語」については、須賀敦子さんの


中世までは、教会のラテン語をながだちにして、ヨーロッパ世界はよこにつながっていた。戦後すぐの時代に芽ぶいたのは、中世思想の排他性をのりこえて、もっと大きな世界をよこにつなげるための思想だったのではないか。(「世界をよこにつなげる思想」in 『本に読まれて』、p.105)
という一節をマークしておく。
本に読まれて (中公文庫)

本に読まれて (中公文庫)

また、「あんま学のない暴走族が夜露死苦とか漢字で書きたがるのは、字に含まれる意味合い以上にその漢字のビジュアルな面を愛でての行為に見えるし、インテリ左翼にはわからない文字の愛され方はあると思う」という指摘*2
円満字さんの『人名漢字』にも、1970年代以降ヴィジュアルとしての漢字が注目されてきたという記述あり。ヴィジュアルとしての漢字ということで思い出したのは西夏文字西田龍雄博士によって解読が進められた*3この文字は漢字に似て、とにかく画数が多い。そうしたヴィジュアルな特徴に漢字(中華文明)への対抗心が表現されている。と、どこかで読んだ気がするのだが、どんな本だったかは容易に思い出せず。多分、西田龍雄『漢字文明圏の思考地図』だったと思う。また、漢字の(文字記号であるとともにグラフィックであるという)二重の性格を踏まえた、漢字に対する批評としては、例えば中国の現代アーティスト、徐冰*4の作品、また王菲『胡思乱想(Random Thinking)』におけるMr. Hardのグラフィック・ワークとか。漢字に関してではないが、劉任も文字の二重の性格を表現している*5
人名用漢字の戦後史 (岩波新書 新赤版 (957))

人名用漢字の戦後史 (岩波新書 新赤版 (957))

夢遊

夢遊

さて、漢字がわかりにくいとか仮名書きはわかりにくいといった議論がある。〈わかりやすさ至上主義〉に対する批判もしたし*6、それは去年秋からの流行言葉で言えば「事業仕分け」的なマンタリテ*7にも繋がるものだろう。さらに、〈わかりやすさ至上主義〉の言語観が問題となる。そういう人たちは言語を、また言語を使ったコミュニケーションを何処に還元するつもりなのか。もしかして、命令(と服従)? 命令がわかりやすくなければ適切に服従することはできない。わかりやすさが絶対的に要請されるエクリチュールといえばマニュアル。でも、マニュアルというのは命令形で書かれてある。読んだ人が余計なことを考えずに書かれてある指示を実行することがマニュアルの目的であるとも言える。しかし、言語を究極的にそこに還元していいのか。少なくとも、それと私たちの自由とは両立しないだろう。勿論、言語の命令機能は強力であるわけだが、実はわかりにくさにこそ、私たちの自由或いは創発性(emergency)*8の余地があるのでは? 自由が発生する(場所を持つ[avoir lieu])ためには、わかりやすさからこそ逃走する必要があるのでは*9?取り敢えず、昨年作った短歌擬き*10を再掲して、恥を晒すことにする;


短歌だと啖呵を切りしTintinはタンカーの底に唐卡ひるがへるか