憎悪しようとして憎悪できるか


英語を学習するために一番効果的なものがあるのだとしたら、それは全力で日本語を憎悪することじゃあないだろうか。

「英語が使えたらいいなぁ」とか、「外国人と会話が出来たらいいなぁ」というフニャフニャな動機に支えられるだけでは、語学スキルは「あったら望ましいが、別になくても困らないもの」としてしか認識されない。

「他の言語をマスターできなくても、最悪日本語だけで生涯暮らしていけるよ」という言語的なセーフティネットに守られていることが、英語学習の最大の妨げになっている。


よく、語学のモチベーションを保つためには、勉強する言語を好きになることが効果的だと言われる。

だが愛よりも憎悪の方が強いのだという立場を取るのならば、如何にして母国語を憎悪することや、日本語に対するネガティブキャンペーンを繰り広げることこそが求められるのではないのか。

英語学習に対する動機と真剣さを最大限に引き出すためには「日本語はインターネット上においては糞言語である」という危機感を認識し、「俺はこの泥舟言語から脱出するぞォッ!!」と決意することが不可欠だ。

インターネットにおける標準語は英語であり、日本語しか使えないというハンディキャップはインターネットでは文盲に等しい。

情報の質と量、あるいは鮮度の高さは、使う人間が多い言語に負けてしまう。読む人間も、情報を発信する人間の量も日本よりも圧倒的に多い。

最終的に日本語はアニメマンガゲームラノベの母国語である以外に生き残りの道が残されていないのではないのかという危機感。そして「こんな極東の島国のクソ言語掴まされちまった!」という憎悪と嘆きが英語学習には必要なのだ。

おれに必要なのは憎しみだ!
http://d.hatena.ne.jp/si-no/20091121/1258831304

津田幸男*1のような〈言語的愛国主義者〉が読んだら、血が頭に上ってしまうのかな。津田先生の健康のためにも、このような文章は読ませない方がいいのか。
上の本文にも関係しているのだろうけど、別のことを考えた。私たちは目的意識的に、つまり憎悪しようとして、何かを憎悪できるのだろうか。〈愛する〉ということについても同様だ。何かを(誰かを)憎む/愛するとき、憎もう/愛そうと思って、憎む/愛するのではなく、端的に憎んで/愛しているのではないか。上の文章は、自分が「日本語」を「憎悪」しているということの表明ではない。「憎悪」はあくまでも〈憎まなきゃいけない〉というshouldやmustの事柄なのだ。また、日本語を論おうとしているのだが、それは〈不利〉に属するようなもので、〈憎悪〉の根拠になるとは思えない。日本語を聴いただけで寒気がするとか平仮名を見ただけで吐き気を催すといったことではないのだ。「最終的に日本語はアニメマンガゲームラノベの母国語である以外に生き残りの道が残されていないのではないのかという危機感」とある。でも、日本語で書かれている「アニメマンガゲームラノベ」は、この人にとって、真につまらなくて、ださくて、いけてないものとして感じているのか。そうしたことが自然に感じられなくては、日本語を「憎悪」はできないだろう。つまり、不可能なことを述べているのであり、〈言語的愛国主義者〉の方々は安心してよろしい。
ここで、谷崎潤一郎の『少将滋幹の母』を挙げることが全然唐突でないことは(これを読んでいる方にとっては)自明なことだろう。
少将滋幹の母 (新潮文庫)

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