鼠男とか

承前*1

http://d.hatena.ne.jp/Jodorowsky/20081026#1224955924 *2からの孫引き;


「なぜ福田さんを支持するんですか?」

 九月十四日、自民党総裁選が告示された日のことだった。世田谷区の自宅前で、いつものように番記者たちのオフレコ懇談に応じていた舛添氏はある記者の質問にこう言い放った。

「やっぱり、成蹊だとか学習院なんかの出身が国のトップを担うのは無理があるっていうことだ。麻生なんて、漢字も読めないじゃないか」

ところで、舛添要一、竹下内閣だったか海部内閣だったかの頃、早稲田が首相になるから日本が駄目になるとかいっていなかったっけ。
まあそれはそれとして、http://d.hatena.ne.jp/kechack/20081119/p1に引用されている高山正之の発言*3。知り合いのIKさん(お元気ですか)も帝京の系列大学の先生だし、以前一緒に翻訳をやったSE嬢も学部は帝京なので、言いにくいのだけれど、こういう大学って留学生がDQNであるなら、それと同様に(或いはそれに輪をかけて)日本人学生もDQNだということじゃないでしょうか。「三流大学」ではないにせよ、多分kechakさんが出た大学よりは格落ちの大学出身である私がいうと説得力はないかも知れないけれど。
今話題の水村美苗の『日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で』という本だけれど、日本に滞在中に結局買わなかった。来年か再来年になればちくま文庫に入るんでしょ? 上海に戻って、地元の新聞を開いたら、戴錚編訳「不久以後日語就将滅亡?」(『東方早報』2008年11月26日)という記事で、彼女とこの本のことが紹介されていた。それで、http://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20081110/p1に関しては、世界に日本語と英語しかないような書きぶりが先ずむかついたということを記しておく。その上で、英語ができるというのは既にデフォルトなんじゃないかとも思う。私は英語の公用語化にも賛成だしね*4。その前提の上で、だからこそ、英語以外の(日本語を含む)言語が重要になってくるわけだ。英語が当たり前になるということは、英語しかできない英語ネイティヴの特権が剥奪されるということでもあるのだ*5。それから、文学に限らず、日本的なものを教育において仕込むというのも実は賛成で、それは何故かといえば、ナショナリズムというのを根絶やしにすることは現実的には不可能だろうけれど、それをより凶暴ではないかたちに矯めることは可能だろうと思うからである。所謂伝統から疎外された低文化資本な人たち、日本人であることの根拠が日本人であるだけという人たちは日本人としてのアイデンティティをどのように確認したらいいのか*6
それから、野原さんの意見なのだが*7、私としては同一性か差異かというよりも、ジョン・ロールズから言葉を盗めば、オーヴァーラッピングということが重要なのではないかと思うのだ。韓国語のことはよくわからないけれど、日本語と中国語というのは隠喩的というより換喩的に繋がっている。それから、日本語にしても中国語にしても単一のものではなく、常に複数形でしか語ることのできないJapanesesChinesesとしてしか存立していないのではないか。ところで、日本語で喫茶とか喫煙という。マンダリンでは喝茶とか抽煙という。しかし、上海では吃茶とか吃煙という。吃というのはそもそも喫の略字なので、喫茶や喫煙は中国語においては、北京はともかく上海ではOKということになるのだ。
さて、図書館が「トゥシュークァン」ということだけど、書(shu)はシューよりも寧ろスーに近い。上海をシャンハイというのも英語の影響であって、実際はサンハイに近い。また、館という字は、そういう方の多くは既にこの世の人ではないのかも知れないが、戦前の教育を受けた教養のある日本人だったら、クワンと発音していた筈。