Nobody's fault

田島正樹*1三木谷社長の暴論」http://blog.livedoor.jp/easter1916/archives/52339996.html


楽天三木谷浩史が(英語教育が)「文法と翻訳に特化している、会話力、表現力といった非常に重要なものが軽視されている」と発言したこと*2に対する反論。
曰く、


現場の感覚では、英語力(この場合特に英語読解力)はこの二十年ほど一貫して低下し続けている。もちろん大学ごとに違いはあるが、一貫して低下しているという印象はどこでも変わらない。これはおそらく、三木谷氏のような主張が社会的に有力になってきて、教育にも「会話重視」が反映されてきたことによるだろう。会話力を重視せよという主張は、文法軽視という結果を招かざるを得ないのである。
問題は(英語の)「文法」を如何に教えるのか(how to teach)ということに存するのでなかろうか。「文法」を教える目的というのは、「文法」を知識として憶えさせることではなく、適切に「文法」を使用できるようにさせることだろう。そのためにどうすればいいのか。また、特に20世紀に入って以来、言語についての思考・言説には語用論的転回と修辞学的転回という2つの転換があると言える。「文法」にしてもそうした転換を踏まえて思考され・教授されなければならないだろう。田島氏はそのような仕方で思考しているのだろうか。

明治以来、先人たちの努力によって培われてきた英文解釈の伝統を、我々は尊重すべきであり、それにまさる教育方法などないと私は考えているが、英作文に関しては少し違う考えである。英作文に関しては、伝統と言えるほどのものは、今日でも存在していない。英語の表現力を教える場合、重要なことは日本語の表現を十分反省する訓練である。したがって、日本語をそのまま英語に移し替える学習は適切とは言えない。

長年、英作文の教育をしていた友人から相談を受ける度に感じたことであるが、日本語では一応まともな表現のように見えるものが、しばしば英語では、とてもまともな表現にはならないということである。つまり、日本語には、何のポイントもない、ただその場を言い繕うだけの目的しかない、無数の擬似表現が存在するということである。

たとえば、一昔前に山一証券が破たんしたとき、社長が記者会見で口にして有名になった言葉というのがあるが、これはどう翻訳できるだろう?Every employee is not responsible for this bankruptcy. だろうか? 「じゃ、誰の責任か?」ということになろう。そもそもこのような文は、英文としてほとんどナンセンスなものであろう。

この社長の発言は、「彼らの誰にも責任がない」と言おうとするよりも、「彼らの一人一人に同情してやってくれ」というほとんど無意味なメッセージでしかない。その無意味さを覆い隠すために、このようにわざと意味をぼかす言語使用の習慣は、英語にはないものだから、翻訳不可能ということになる。

したがって、英語表現力を身につけるために「ネイティヴ・スピーカーの教師を増やす」というのは、まったく対策としては下策と言わざるを得ない。むしろ重要なことは、日本語表現では何か表現したかのように見え、また考えているかに思われるものが、何ら表現も、思考もしていない、空疎な言い繕いでしかないことを、完膚なきまでに摘発する批判的日本語力なのである。

ここでは既にトピックが「文法」から(英語の)「表現力」に移っている。
少しコメントを差し挟むと、先ず「何のポイントもない、ただその場を言い繕うだけの目的しかない、無数の擬似表現」が存在するのは何も「日本語」だけではないだろう。また「その場を言い繕う」というのも、重要な、しかも時には命懸けの言語実践ではある。端から(或いは上から)見ていくら「ナンセンス」であっても、その発話に他の発話が接続され、話が続いていくとしたら、或いはその「ナンセンス」な発話によって何かしらの効果が生まれるとしたら、やはり有意味であるといえるのではないか。田島氏は、山一証券社長の「社員は悪くありません!」という発言を「この社長の発言は、「彼らの誰にも責任がない」と言おうとするよりも、「彼らの一人一人に同情してやってくれ」というほとんど無意味なメッセージでしかない」と批判する。この発言の文脈等については色々と問題があって、コメント欄でも議論され、この後に紹介するつもりなのだが、仮令同情を買おうとするためのものでしかなかったとしても、それは「無意味なメッセージでしかない」のか。少なくとも語用論的な準位で考えれば、十分に有意味な発話だろう*3。「同情」してもらった乞食は食べ物や酒にありつくことができるかも知れないが、「同情」してもらえなかった乞食は餓死してしまう可能性はより高い。同情を買うということはそれほどまでに重要なのだ。英語の「表現力」ということで真剣に考え・教授すべき問題は、如何に英語を使って同情を買うのかということに尽きるのではないか。
BOACKという方のコメント;

概ね同意ですが、最後の山一證券の部分は何か違いませんか。
「みんな私ら(経営陣)が悪いんであって」の後の「社員は悪くない」であり、従業員の再雇用を円滑にする意図だった訳ですから。
というか当時の野澤社長に押し付けて逃げた前経営陣が主犯だった訳で、その後野澤社長が従業員の再雇用に尽力した点まで、むしろ海外の方にも理解して貰いやすいように思います。

ご指摘の発言は会見の最後の方に出た言葉であって、その前に経緯を説明していたようですが。
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/3212/Taro04.html
平成9年11月24日 毎日新聞山一証券破綻>蔵相、日銀総裁山一証券社長の記者会見=要旨

前経営陣の関与を説明していないと「前経営陣の刑事責任の追及は」という記者の質問は出ないのでは?
いくら日本でも経緯説明もなくあの最後の部分だけの記者会見などできないでしょうね。

「社員は悪くありません!」の英訳としてのEvery employee is not responsible for this bankruptcy. だが、先ずeveryで否定文はどうよと思ってしまう。everyの否定は部分否定で、すべての従業員に責任があるわけではない、(スネークマン・ショー的に)いい奴もいるし悪い奴もいる。また、notを前に持ってきて、not everyとするのがよりノーマルな仕方だろう。「BOACK」氏が提示した文脈を踏まえた上で、試訳を示すと、It's nobody's fault (but ours). ではどうだろうか。勿論、これは「Led Zeppelinの”Nobody’s Fault but Mine”のパクリ」ではある*4
プレゼンス

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