「オウムについて知りたいならこれはマストでしょう」

中沢新一責任編集『イマーゴ』6-9(臨時増刊、総特集=「オウム真理教の深層」)*1。nesskoさんは「オウムについて知りたいならこれはマストでしょう」と言っている*2。たしかに。先ず注意しておかなければいけないのは、これが出たのは1995年8月であり、かなりの急ぎ仕事だということ。この中で最も「マスト」を3本挙げれば、


山本ひろ子*3「終末論と超人思想――躓いた宗教戦争」、pp.65-79
永沢哲「わが隣人麻原彰晃――霊的実践における技術とポイエーシス」、pp.211-243
中沢新一「「尊師」のニヒリズム」、pp.254-277


山本論文は、「オウム真理教」どころか「オウム神仙の会」以前の、酒井勝軍や「古代の神秘の石」である「ヒヒイロカネ」への関心(See pp.70-71)が(サリン事件で頂点に達する)その後の暴走に対してずっと意味を有していたことを提示している。麻原(オウム)の「ハルマゲドン」思想はこの頃に遡る。
ところで、宗教団体としてのオウム真理教の特異性のひとつは、〈聖地〉というものへの無頓着さだろう。オウムは土地を巡って各地で地元住民とのコンフリクトを招来したが、彼/彼女らにとって、土地(空間)というのは不動産としての価値しかなかったかのようだ。オウムには聖地はなかった。麻原が生まれた熊本県八代も、麻原が若い頃暮らした千葉県船橋市も聖地ではなかった。教団施設があった山梨県上九一色村も、南青山も、たんなる営業拠点や生産拠点であって、聖地ではなかった。エリアーデが述べていたように、宗教というのは空間を聖と俗に分割し、聖地を結晶化するものだとすれば(『聖と俗』)*4、オウムの空間に対する態度は非宗教的なものだといえるだろう。その後の〈パワー・スポット〉*5ブームはアンチかどうかは知らないけれど、非オウム的であり、宗教的には健全であるといえるかも知れない。上杉清文「日本人よ、宗教をなめるな!」(pp.150-163)から;


まず、富士山南麓の住人であるわたしが感じた素朴な疑問は、富士宮市人穴の富士山総本部はまだしも、山梨県上九一色村に建造された「サティアン」と呼ばれる教団施設に関するものであった。
周知のごとく、富士山は、「日の本のやまとの国の鎮めとも、います神かも、宝ともなれる山かも」と『万葉集』に詠われた、日本総鎮守の霊山である。この富士信仰を伝える神霊の山麓に出現した「サティアン」群は、自然破壊の極致といってもいいほどの理不尽なまでに異様な建造物であった。(p.151)。