承前*1
- 作者: レーヴィット,熊野純彦
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2008/10/16
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カール・レーヴィット『共同存在の現象学』「序論」からのメモ。
何故か。精神史的な答え;
哲学が共同世界といったことばを口にするのは、たいていは、カントの意図に反して二次的なものとなった哲学の分科、すなわち「倫理学」においてなのである。かりに哲学が共同世界について哲学的・原則的に問いかけようとするものであるならば、哲学にとって根本的な分科となつ部門で、つまり形而上学あるいは論理学において、共同世界が語りだされなければならない。しかし、形而上学や論理学にとって、共同世界はまさにいかなる問題ともなっていないのだ。共同世界への問いは、人格主義的な哲学、性格学、人間学等々における部分問題として、倫理学においてそうであるよりもなお周辺的なかたちで立てられているにすぎない。(p.25)
こうした「統一的な〈私〉が意識する諸対象の多様性が「世界」とみなされ、主観の客観への関係、〈私〉の世界への関係が」「形式的な根本問題となる」「問題設定」の「典型」として、レーヴィットが挙げるのは、ジンメルの『哲学の主要問題(Hauptprobleme der Philosophie)』(1910)(pp.27-28)。
ドイツ観念論の主要な源泉はルネサンスと宗教改革であるが、この両者がはたらきかけて−−自然(周囲世界)と社会(共同世界)とに対する−−個人の自立性が成立するようになる。このようにルネサンスと宗教改革によって人間的で宗教的な自律が発見され、この発見によって動機づけられたものこそが「私は存在する」「私は思考する」の哲学史的な優位なのである。そのさい自立的な主体性の本質は、あるいは「思考することcogitare」において「私が存在するsum」こととして(デカルト)あるいは「純粋意識」として(フッサール)、道徳的な「自律」として(カント)、「精神」として(ヘーゲル)、あるいはまた「単独者」の実存としても(キルケゴール)基礎づけられたけれども、こうしたちがいは二次的な意味をもっているにすぎない。そうした立場のすべてが、多かれすくなかれ抽象的にとらえられた自己−意識からひとしく出発し、そののちに自己−意識の相関者としていわゆる対象意識が作動するにいたるということの消息にくらべれば、二次的なものにすぎないのである。統一的な〈私〉が意識する諸対象の多様性が「世界」とみなされ、主観の客観への関係、〈私〉の世界への関係が、観念論ならびにこれに対立して規定される実在論の立場にあって、ともに形式的な根本問題となる。(pp.26-27)
また、レーヴィットは「自己−意識」に関して、ニーチェ『悦ばしき知』第54節の参照を求めている。
- 作者: フリードリッヒニーチェ,Friedrich Nietzsche,信太正三
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 1993/07/01
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すべての客体の究極的な意味、したがって他の主体が有する究極的な意味もまた、シュティルナーにとって、そのつど唯一者の所有に帰することであり、〈私〉によって消尽されることである。ドイツ観念論最後の体系〔ヘーゲル哲学〕*2は、シュティルナーの「唯一者」とキルケゴールの「単独者」によって批判された。だが、その批判と同時期にフォイエルバッハは『将来の哲学の根本問題』において、観念論にふくまれる形式的な根本問題(主体−客体)を新たな地盤のうえに設定しようとする、綱領的なくわだてをこころみている。フォイエルバッハが提示したなお萌芽的で素朴なテーゼによれば、こうである。「人間の本質はただ人間と人間との統一のうちにふくまれている−−その統一は、とはいえ、〈私〉と〈きみ〉の区別が実在的なものであることにもとづいているのだ」。「私は思考するさいにも哲学者としても、人間たちと共に在る人間である」。「真の弁証法とは孤独な思索者がみずからと語りあう独語ではない。〈私〉と〈きみ〉とのあいだの対話なのである」。−−公認の哲学史では、フォイエルバッハの『根本問題』はまったくふれられることがない。公認の哲学史はとりわけ認識論的に浅薄なものがあることで、主体−客体問題に囚われつづけているからだ。(後略)(pp.28-29)
フォイエルバッハが、しかもフォイエルバッハだけが『将来の哲学の根本問題』において、《きみ》という標題のもとで共同世界に格別な意義を承認している。それゆえ『根本問題』にかんしては、まえもって独立に叙述することがみとめられてよい。この著作ほどに、私たちが主題に目を向けるさいにふさわしいものはない。まずフォイエルバッハの根本命題を地盤として確保し、私たちはつぎに共同世界の現象学的な構造分析へと歩をすすめる。フォイエルバッハの建設的なテーゼを仕上げようとするものとして、この分析はフォイエルバッハのテーゼに対してさしあたり破壊的なものとならざるをえない。とはいえ、まさにそうすることで、『将来の哲学の根本問題』は具体的なかたちでふたたび−立ちあらわれることになるのである。(p.30)
- 作者: スティルネル,草間平作
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1929/08/05
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- 作者: スティルネル,草間平作
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『将来の哲学の根本問題』は明日本屋で探してみる。
日本に帰って気づいたのだが、週刊誌の頁数がへって、とてもぺらくなっている。どれも横並びに。コンビニで『週刊ポスト』を立ち読みしたら、「男の「おひとりさま力」養成講座」とかいう上野千鶴子へのインタヴューが載っていた。買わなかったけれど。
NHKの『熱中時間』という番組で、青森市の職員をしながら〈舞踏〉を実践している福士正一さんという方を取り上げていたのだが、番組のナレーターがあがた森魚で、その名曲「赤色エレジー」も数十年ぶりに聴いた*3。
あと、驚いたのは、「山本山」という何だか海苔屋みたいな醜名の取的がいるんだね。