調度

承前*1

共同存在の現象学 (岩波文庫)

共同存在の現象学 (岩波文庫)

カール・レーヴィット『共同存在の現象学』II「共同相互存在の構造分析」第一部「共同世界と「世界」ならびに「周囲世界」との関係」第5節「周囲世界のうちに共同世界があらわれること」a「製作品の世界として」の3回目。


6 しかし共同世界は、遙かに人目を引くしかたでも周囲世界のもとに立ちあらわれ、また周囲世界のなかで前景にあらわれる。つまり周囲世界と共にあらわれるばかりではなく、共同世界それ自身だけでもあらわれ、その場合には「周囲世界」のほうが共同世界と共にあらわれて、人間的な環境という意義において現前する。こうした出会われかた――共同世界が周囲世界において、また周囲世界から出会われるのではなく、周囲世界が共同世界において、また共同世界から出会われる――のほうが、もっとも根源的な出会われかたなのである。第一次的にはおよそ、人間が世界のうちで世界のほうから人間に語りかけ、出会われるのではなく、世界のほうが「人間たちのうちで」、人間たちの側から語りかけ、出会われるからである。(p.91)
この後で、この些か抽象的な叙述の例として、「調度」と「調度品」の関係が語られる;

(前略)ひとが家具に注意するのは、家の調度全体の範囲内においてであり、調度品としてである。(a)*2製作品としての家具にはただ、それを製作した職人がぞくしているのみである。かれらだけが直接に、その仕事のしかたに応じて、腕の良い労働者、悪い労働者として前景にあらわれうる。(b)一般的な実用−品としての家具には、特定のだれもぞくしてはおらず、その家具をそのつど使用しうる者のみがぞくしている。使用にあって道具は(略)その使い心地への顧慮をのぞけば、それ自身において注意されなくなる。(心地よく)坐っている場合には、いわば座席そのものはすがたを消してしまうのだ。にもかかわらず人間が道具そのものにおいて、人間がそれを使用する、したがってたとえばそこに−坐るというしかたにあって前景に立ちあらわれるとすれば、人間を前景へともたらすのは(略)ほんらいは道具、すなわち椅子ではない。(略)(c)(略)「調度」それ自身の全体をほんのすこし見わたすと、調度のなかに人間が告げられている。さらに正確に目をくばるなら、ひとつの部屋の調度において出会われるのはまず調度品であって、つぎになおまた、調度品をまさにそのように配置した者が出会われるなどというわけではない。当該の人物についてまえもって知識がない場合でも、調度が調度であることですでに紛れもなく証言しているのは、人間が現に存在すること(Dasein)であり、しかも或るまったく特定の傾向をもった現存在、すなわち、じぶん自身をそのように「配備」し、かくてじぶんをそのように秩序づけておくことに関心をもつような、人間の現存(Dasein)である。きちんと配備され秩序づけられた「住居(Wohunung)」にあって告げられているのは、秩序をもった「家政(Haushalt)」であり、そこには特定の人間的「態度(Haltung)」が告げられている。根源的な秩序への欲求(Ordnungbedurfinis)、つまり「几帳面(ordentlich)な人間」が、整頓された(geordnet)その環境のうちで告げられているのだ。(pp.92-94)
この後は、ストリンドベリの『大海にて』という小説への言及(pp.94-95)。