松本清張生誕100周年*1ということで、メディア関連業界が少しは活性化しているのを知る。例えば、新潮社は浅田次郎、海堂尊、原武史、佐藤優、宮部みゆき、桐野夏生を編者とした6巻本のアンソロジー『松本清張傑作選』を刊行したとか。また、『ゼロの焦点』の再映画化も。
日本出版販売のPR雑誌『新刊展望』(12月号、No.769)でも松本清張特集で、『ゼロの焦点』を監督した犬童一心へのインタヴューが掲載されており、その中で犬童は映画『砂の器』*2について以下のように語っている;
二年ほど前、機会があって映画『砂の器』(監督・野村芳太郎)を見直しました。そのとき思ったのが、犯人・和賀英良の造詣(sic.)*3は日本人そのものだということです。映画が製作されたのは七四年。日本の高度経済成長期の終焉は七三年だと歴史的に言われています。高度経済成長の中を通過していく日本人たちが抱えた「罪の意識」。それを集大成したのが和賀英良だと思いました。
栄光をつかむために父親を見捨て、恩人である巡査の三木を殺した和賀英良。「宿命」という曲を弾きながら彼の頭の中をよぎるのは、日本の四季、旅する親子、優しかった三木の姿でした。未来のため、罪に目をつぶって前に進んできたけれども、思い描くのは自分が見捨て、切り捨ててきたものであるわけです。「もしかしたら我々は、一番大事なものを捨ててここに立っているのかもしれない」。それは当時の日本人が抱いていた気持ちや罪の意識にフィットするものであり、清張とはそういうものを描いた作家だと思うんです。(pp.14-15)
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さて、『砂の器』に限らず、ミステリーというのは過去(の痕跡)の現在への露呈という形式を取る。現在に露呈した煙草の吸い殻とか陰毛といったものが過去の犯罪の痕跡として解読される。これは精神分析にも似ている。そこでは、現在の様々な言動とか心身の症状が(抑圧され、無意識に封じ込められた筈の)過去の心的トラウマの表現として解釈される。また、考古学*4も同じ構造を持つといえるだろう。発掘されて現在の陽の下に照らし出された過去の物。だから、推理作家としての松本清張が古代史や考古学にも関心が強かったというのは自然といえば自然である。