三鳥居よりも悪いのは

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090827/1251405021で引用したhttp://katoler.cocolog-nifty.com/marketing/2009/08/post-3fd3.htmlで、カトラー氏は


しかし、思い起こせば、サントリーという企業は、もとからビールメーカーであったわけではなく、戦後の物資が欠乏した時代に、醸造アルコールに色をつけただけと揶揄されたこともある安物ウィスキー「トリスウィスキー」を巧みな広告宣伝で爆発的なヒットへと導いたことが企業としての原点だ。だとすれば、こうした企業遺伝子を持つサントリーが、第3のビールに入れ込むのは、むしろ当然なのかも知れない。
と述べている。先ず言っておかなければならないのは、当時は寿屋と呼ばれたサントリーは、角瓶とかオールドといったまっとうなウィスキーを戦前から造っていたということだ。伊藤精介『銀座 名バーテンダー物語』*1を少し参照してみる。当時「粗悪なアルコールに色と香りをつけただけの模造ウィスキー」(p.184)が氾濫するなかで、「トリス」は一応モルトが5%入っていた(p.185)。しかし、こうした事態に関して最も糾弾されるべきは、大蔵省であろう。「トリス」は酒税法上は「三級ウィスキー」のカテゴリーに属していたが、

当時の税法では、原酒が五パーセント以下、0パーセントまで入っているものを三級ウィスキーと規定していたのだ。なんのことはない。原酒などまったく入っていなくても税金さえ納めていれば堂々と三級ウィスキーで通ったのである。(pp.184-185)
日本政府、特に大蔵省は一貫して、酒を文化商品としてではなく、たんなる搾取のネタとしてしか見ていなかったのだ。さらに言えば、当時(1960年代頃までは?)まっとうなウィスキーを呑むことができたのは一部の特権階級だけだった。また、民衆は焼け跡で「カストリ」とか、さらには(生命に危険が及ぶ)メチルとかを呑んでいたわけで、それらに比べれば「トリス」は数倍ましだったということもある。
まっとうなウィスキーを呑むことができたのは一部の特権階級だけだったと書いたが、既に戦前において、ジョニー・ウォーカーなどのスコッチやジンの偽物が国内で製造され、それに対抗して、「日本バーテンダー協会」は「真正洋酒普及連盟WINE & SPIRIT PROTECTION SOCIETY」を昭和9年4月に設けている。「連盟」は政府に請願を行い、「不正競争防止法案」が昭和9年に帝国議会を通過し、昭和10年4月に公布・実施されている(pp/170-172)。
酒以上に興味深かったのは、敗戦直後の日本における珈琲事情。古川緑郎 氏が1948年に独立して、バー「クール」を開店した当時、昼間は喫茶店も営業していた;

ただし喫茶店といっても、メニューはコーヒーだけ。それも、進駐軍が一度使ったコーヒーの滓を買ってきて、それを鍋に入れてグズグズ煮込んで、さらにそれを布袋で漉した代物。もちろん砂糖なんて手に入らないから、サッカリンを代用にして飲む。二番煎じか何番煎じか知りませんけど、それでも当時は「おいしいコーヒーだね」って喜ばれたものです。(pp.159-160)
銀座 名バーテンダー物語―古川緑郎とバー「クール」の昭和史

銀座 名バーテンダー物語―古川緑郎とバー「クール」の昭和史