豊臣の末裔

横山健「木下家19代当主・木下崇俊「大坂の陣で殺された豊臣秀頼の遺児が生きていた?」」http://dot.asahi.com/wa/2016011500061.html


北政所(寧々)の兄である木下家定の三男、延俊の子孫、 木下崇俊氏の語り。
「明治まで豊臣家は続いていた」。たしかにそうだけど、それに驚いてしまうこと、この記事がニュース・ヴァリューを持ってしまうのは、或る誤解(混同)が関係している。 私たちは、秀吉は木下→羽柴→豊臣と、出世する度に改姓していったと容易に思い込みがちだ。しかし、(ここでも何度か参照した)岡野友彦『源氏と日本国王*1で指摘されているように、「木下」や「羽柴」と「豊臣」を同じ準位で語ることはできない。後者は「藤原」や「平」や「在原」や「源」のような「姓」であり、前者は苗字である。苗字でいえば、秀吉は一生羽柴秀吉だったわけであり、秀頼も羽柴秀頼だったわけだ。他方、秀吉が天皇から「豊臣」姓を与えられると、 寧々の親戚である木下家の人々(木下崇俊氏の御先祖)も同時に「豊臣」になった。そして、それは江戸時代を通じて変わらなかった。徳川家が「源氏」であり続けたように。

源氏と日本国王 (講談社現代新書)

源氏と日本国王 (講談社現代新書)

それよりも、最後で語られている秀頼の息子「国松」を巡る伝承話が興味深い;

ところが、日出藩主だったわが木下家には、まったくちがうストーリーが代々伝わってきました。捕らえられて斬首されたといわれている秀頼の息子・国松に関するものです。

 国松は真田幸村の嫡男・大助らとともに薩摩の伊集院(現日置市)に逃れた。恐らく、島津家の軍船で落ち延びたのでしょう。その後、薩摩でもかくまいきれなくなったのか、国松は日出藩に来ます。国松は、2代・俊治の弟として延由と改名し、羽柴の姓を与えられ、日出藩3万石のうち5千石を分封され立石藩主になった。これが口伝で伝えられてきたのです。うちの分家ともいえるその家は、明治時代まで続きました。

 わが家の言い伝えは、秀頼に関しては触れていません。ただ、鹿児島市の木下郷と言われていた集落には、こんな話が残っていたそうです。大坂夏の陣が終わると200人以上の集団移住があった。移住してきた人々は、どことなく高貴な人たちで、農業や商売をすることもなく、飲み食いをしても、その代金を払うこともなかった。あとから島津家の者がやって来ては、その分のお代を払っていったことを考えると、移住者たちは秀頼とその家臣たちだったのではないか──。

 現地には、秀頼のものとされる墓もあります。歴史には表があれば裏もある。私は、そう考えています。

最初の話だけれど、5000石では「藩」は構成できない。藩主(大名)は1万石以上。5000石だと陪臣ということになる。後の話は、その「木下郷」という地名の起源伝説とも関わっているのでは?
豊臣落人伝説については、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20101218/1292697294も参照のこと。