compassionとpity(メモ)

今こそアーレントを読み直す (講談社現代新書)

今こそアーレントを読み直す (講談社現代新書)

http://d.hatena.ne.jp/Geheimagent/20090619/p1


仲正昌樹『今こそアーレントを読み直す』という本について。実はこの本、買ったのだけど*1、まだ読んでいない。なので、この本に関しては立ち入らない。ただ、「共感」云々というのがエントリーの中に出てくるので、少し注釈めいたことを。
「共感」という日本語に対応しそうな英語なのだが、『革命について』第2章「社会問題」の中で、アレントはcompassionとpityという2つの言葉を微妙且つ明確に区別している。ルソーに端を発して全体主義的な悲惨の契機になったとして糾弾的に論じられているのは後者の方。『革命について』における「共感」だとか「同情」とかの問題を論じる場合にこの区別をスルーするというのは端的に駄目なんだろうと思う。それは例えば、アレントドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」のパッセージについて、延々と言及を行っていることを無意味化してしまうことだ。http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090618/1245290595で言及した古茂田宏ハンナ・アーレントの革命論」もその区別を無視している。

On Revolution (Classic, 20th-Century, Penguin)

On Revolution (Classic, 20th-Century, Penguin)

カラマーゾフの兄弟〈上〉 (新潮文庫)

カラマーゾフの兄弟〈上〉 (新潮文庫)

カラマーゾフの兄弟〈中〉 (新潮文庫)

カラマーゾフの兄弟〈中〉 (新潮文庫)

カラマーゾフの兄弟〈下〉 (新潮文庫)

カラマーゾフの兄弟〈下〉 (新潮文庫)

アーレントとマルクス

アーレントとマルクス

さて、pityは憐憫と訳せばいいのだろうけど、compassionを「共感」とか「同情」とかに安易に訳すのは反対。compassionという語が西洋史において受け取ってきた様々な含意が隠蔽されてしまうのではないか。下手に訳すくらいならそのままにしておいた方がいいのだが、取り敢えずcompassionがcom(共に)とpassion(痛み、受動性)という要素からなっていることを念頭に置いておけばいいのではないか。あなたは痛い、私も痛いというふうに、他者の痛みが私に感染してしまうこと*2。その痛みの感染によって凍り付いてしまうこと。compassionとはそういうことである。compassionは共感するぞとか目的意識的にできるものでもないし、共感しろとか命令によって他者(や自己)に強制できるものでもない。それは不意討ち的に感染してしまうという仕方でしか生起しない。それは〈無能的力量〉である。アレントがそのようなものは革命の、或いは政治体の基礎にはならないと言ったのは当たり前と言えば当たり前なのだ。もし無理矢理そうしようとすれば、compassionはそもそものものとは別の何かに変容してしまう。それが憐憫(pity)ということになるが、compassionとpityは、


受動的/能動的
寡黙/饒舌
(他者に対して)対等/(他者に対して)優位


といった差異を持つことになる。
不意討ち的に私を襲撃する情動で、compassionとは逆に何かを行うように私を急き立てるものとして、John D. Caputo神父(Against Ethics)が論じているobligation*3があるけれど、このobligationとcompassionとの関係をどう考えるべきか、というのは(私には)まだわからない。

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060909/1157778917http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060919/1158671904をマークしておく。

*1:See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090520/1242779562

*2:哲学や心理学について或る程度の知識を有している人は、アンリ・ワロンやモーリス・メルロ=ポンティを連想するのではないか。

*3:これも「義務」と安易に訳していいものかどうか。