Klaus Heldとか

承前*1

「フロネーシス」について。倪梁康氏(「《十二怒漢》VS《羅生門》――或:政治哲学中的政治‐哲学関係」*2において、


按照克労斯・黒爾徳*3的観点、我們可以用亜里士多徳*4的述語把這種相互説理的藝術称作“明智”(phronesis)或“実践智慧”。它能夠在柏拉図*5式的“認識”(episteme)與“意見”(doxa)的極端対立之間建立起溝通、従而提供了在両者截然的非此即彼之外的第三種可能。(p.64)
と述べている。エピステーメーとドクサを繋ぐものとしてのフロネーシス。
倪梁康氏はヘルトの『世界現象学』(孫周興編、三聯書店、2002)という本を参照しているのだが、この本の原書の書誌情報とか日本語訳の有無については確認できず。
さて、「《十二怒漢》VS《羅生門》」では黒澤明の『羅生門』とシドニー・ルメットの『十二人の怒れる男』が比較されている。この2本とも「一個政治哲学内部之緊張的構図」(p.60)が描かれているのだが、『羅生門』で表現されているのは、政治/哲学、多数/真理、民主/科学等々の対立であり(ibid.)、

蘇格拉底*6曽諷刺希臘人想通過多数票来決定真理。黒澤明用他的電影再次伝達了這個嘲諷。(p.59)
という。それに対して、『十二人の怒れる男』が描こうとしているのは、「理性的」と「政治的」という「両種本性」の間の「貫通的可能性」(p.63)、「通過対話和論争、(略)通過相互説理、各種意見最終可以指向対真理的認知」(p.62)ということである。『羅生門』では、各登場人物は個別的に証言を行うが、他者と「相互説理」、議論することはない(p.65)。
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Klaus Heldに関して、


Emanuel L. Paparella “Klaus Held on Religion, Science and Democracy in European Culture” http://www.metanexus.net/Magazine/ArticleDetail/tabid/68/id/10413/Default.aspx


という記事を見つける。