文体の獲得など

内田樹「マスメディアの凋落」http://blog.tatsuru.com/2010/04/02_1243.php


「週刊誌」の「文体」についての話が面白かった。


ある週刊誌の女性編集者が取材に来たことがあった。
その週刊誌はいわゆる「おじさん」系の雑誌で、「世の中、要するに色と慾」というタイプのシンプルでチープなスキームで森羅万象を撫で斬りにしていた。
そういう単純な切り取り方で世の中の出来事を説明してもらえると、読む方は知的負荷が少なくて済むので、それなりの読者がついている。
二十代の女性がその記事を書いている。
私はさぞや苦労していることだろうと思って、そう言ったら、きょとんとして「別に」とお答えになった。
記事の書き方に決まった「型」があるので、それさえ覚えれば、私みたいな女の子でもすぐに「おじさんみたいに」書けるようになるんです。
以前、個人的な「癖」の準位で「文体」について語ったことがあった。文体は個性だ! というか、「「文体」に関しては、小学生の作文から大文豪に至るまで、文を書く以上、癖としての「文体」は不可避的に発生してしまう。匿名であっても「文体」によって身元がばれてしまうくらいに」*1。しかし、「文体」はそうした個人的準位とは別に(広い意味・狭い意味で)社会的な側面があることも事実だ。個性とかいってもそれは社会関係の函数にほかならないじゃないかということだけではない。或る集団(組織或いは社会的カテゴリー、役割)に支配的な文体を獲得することはそこへの社会化に於いて必須とされるコンピータンスの一部なのであろう。というか、社会化の成功はコンピータンスの獲得によって測られる。サラリーマンになるということはあのビジネス文書の文体を身につけることであり、身につけることによって、サラリーマンとしてのものの見方・感じ方が身につき、サラリーマンとしての自己が形成されていくということになる。上の例で言えば、「おじさん」的な文体を身につけることによって「おじさん」になる。或いは、〈女〉的な文体を身につけることで女になり、〈男〉的な文体を身につけることで男になる。ここからすれば、個人の「癖」としての個性としての文体というのは社会的文体と齟齬を来さない限りで許容され、齟齬を来すようであれば、矯正するよう圧力がかかってくるということになる(左利き*2のように?)。勿論、勤務が終わればサラリーマン的文体を使う必要はないわけだし、また上の例にあるように、特定の文体を習得することによっていくらでも自分の社会的カテゴリーを捏造することもできるのだ(というよりも、特定の文体を使えば相手が勝手に特定の社会的カテゴリーとして理解=誤解してくれる)。
ところで、内田氏は

新聞の凋落は、その知的な劣化がもたらしたものである。
きびしい言い方だけれど、そう言わざるを得ない。
新聞記事の書き手たちは構造的にある「思考定型」をなぞることを強いられている。
それは世の中の出来事は「属人的な要素」で決まるという思考定型である。
要するにこの世には「グッドガイ」と「バッドガイ」がいて、その相克の中ですべての出来事は展開しているので、誰がグッドガイで誰がバッドガイであるかを見きわめ、グッドガイを支援しバッドガイを叩く、ということを報道の使命だと考えているということである。
シンプルでチープな話型だが、現実にそういう話型に基づいて世の中の人の多くはふるまっているので、その話型で説明がつくことは少なくない。
と述べている。これに関しては、ネットはもっと酷いと思う。陰謀理論はまさに「この世には「グッドガイ」と「バッドガイ」がいて、その相克の中ですべての出来事は展開している」とする「思考定型」である*3
また、新聞、「マスメディア」一般は「誰も個人責任を取る気がない。取らなくていい。というより、個人責任を取ることができないようなシステムになっている」といい、

「最終的にその責任を引き受ける個人を持たない」ような言葉はそもそも発される必要があるのか。
私は率直に言って「ない」と思う。
人々が新聞からテレビから週刊誌から離れていっているのは、インターネットという通信手段の利便性が高いから「だけ」ではない。
とりあえずネット上では、誰も、発語したものに代わって謝罪したり、弁護士を雇ったり、賠償金を払ったりしてくれないからである。
ここでは自分の発した言葉の責任を一人で引き受けることが「できる」。
この書き手が自分の書いたことについて全面的に責任をとることが「できる」という権利(義務ではない)が、マスメディアが「鋳型」から叩き出す定型的なテクストに対してインターネット上のテクストが有しているアドバンテージの実質ではないのか。
と結論づけている。
匿名的な言説の責任を誰が取るのかという問題はさて措き、これは「マスメディア」と「インターネット」の差異というよりも、〈組織〉によって生成される言説とdo-it-yourselfの言説の差異だろうと思う。

See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100407/1270572802