ダンス/音楽(メモ)

批評空間 (第2期第22号)

批評空間 (第2期第22号)

承前*1

Alain Badiou「思考のメタファーとしてのダンス」(守中高明訳、『批評空間』II-22、1999 pp.132-144)からの抜き書き;


(前略)われわれは実際、ダンスとは切迫性の虜になった身体のことだと言うことができるだろう。だが、切迫しているのは、まさに今しも起ころうとしている時間の前の時間である。ダンスは、切迫性の空間化として、あらゆる思考が基礎づけ組織するもののメタファーとなるだろう。人はそれゆえ次のように言うことができるだろう。すなわち、ダンスが演ずるのは命名以前の出来事であり、したがって、名の代わりに沈黙があるのだ、と。ダンスは名以前の沈黙を明示化する――まさしくそれが時間以前の空間であるがゆえに。
ただちに生ずる反論とは、もちろん音楽の役割である。いったいどうすれば沈黙について語ることができようか――あらゆるダンスがかくも強固に音楽の管轄のもとにあるように見えるというのに? なるほど。ダンスを音楽の虜になった身体として記述するような、そんなダンスについての考え方がある。だが、そのような考え方はいまだに、そしてあいかわらず、「服従と健脚」、すなわちわれわれの重苦しいドイツなのである――たとえその服従が、音楽をみずからの主人と見なしているのだとしても。ためらわずにこう言おう――音楽に服従するようなあらゆるダンスは、仮にショパンブーレーズが問題になっているとしても、音楽を軍隊音楽に変えてしまっているのであり、同時にそれは、忌まわしきドイツへとメタモルフォーズしてしまうのである、と。
(略)ダンスにとって音楽は沈黙を刻印する以外の役割を持っていない、と。音楽はしたがって必要不可欠である。というのも、沈黙は沈黙として明示されるために刻印されなければならないからである。何の沈黙か? それは、名の沈黙である。ダンスが名の沈黙において出来事の命名を演ずるというのが真実だとすれば、この沈黙の場所こそは音楽によって指し示される。それは、ごく自然なことだ。つまり、われわれがダンスを基礎づける沈黙を指し示すことができるのは、ただ音響のおよそ最も極端な集中によってのみである。そして音響のおよそ最も極端な集中とは、音楽である。したがって、あらゆる外見に反して、すなわち、ダンスの「健脚」が音楽の命令にしたがうことを望む外見に反して――音楽を制御しているのはダンスのほうなのである――その音楽が、名の偶然的で消滅するエコノミーの中で、ダンスが生まれたままの思考をそこにおいて呈示する、そんな基礎づける沈黙を刻印するかぎりにおいて。あらゆる思考の出来事的次元のメタファーとして理解されたダンスは、みずからそれによって支えられている音楽に先立っているのである。(pp.136-137)