田村理『国家は僕らをまもらない』

国家は僕らをまもらない―愛と自由の憲法論 (朝日新書 39)

国家は僕らをまもらない―愛と自由の憲法論 (朝日新書 39)

田村理『国家は僕らをまもらない 愛と自由の憲法論』(朝日新書、2007)を読了したのは既に数か月前。


序章 ビストロのような憲法論を
第1章 キムタクの「目」で感じる立憲主義――国家=権力観でみる憲法
第2章 「ただの憲法じゃねえか、こんなもん」――人権観でみる憲法
第3章 「忠誠の木」が生まれるとき――新しくない「新しい」憲法
第4章 イチロー選手の「個人主義」――「個人の尊重」はいきすぎたか
第5章 「こぐま園」という集団――個人主義と集団の関係
第6章 くだらぬ民主主義が必要なわけ――「投票」と立憲主義
第7章 「愛すべきアホ」たちを国家=権力からまもるには――統治機構の使い方
第8章 無自覚の高揚と自覚的選択――平和主義と立憲主義の関係
終章 愛国心を国家=権力からまもろう!――まとめにかえて


あとがき

本書では、「フランス料理のように敷居が高くてとっつきにくい憲法について、僕たちの感覚にうったえるイメージを提供すること」(p.16)が目指されるという。著者の危機意識は、

(前略)立憲主義はあまりに僕たちに定着していない。「壊される」前に、そもそも存在していない。日本国憲法の条文にしか存在していないことこそ最大の問題だと僕は考える。それは、「国家=権力から干渉を受けずに自由でいることはどんなふうに魅力的なのか、そのためには何が必要なのか」、そういうイメージを伝えることができなかったからではないかと思うのだ。だから、僕の身の周りのいろんな材料を使って、できるかぎり「とっつきやすく」イメージを描きたい。(pp.16-17)
と述べられている。だからこそ、「クラシックな憲法観」を示すのだという。また、

僕たちは、憲法を、権力への制限規範ではなく、国民の行動規範であるとずっと前から理解してきたのである。だから、憲法改正を目指す人たちが示している「新しい」憲法観は、実は全く新しくない。生活すべてに関する行動規範としての憲法という観念は、世代から世代へ受け継がれ、根強く、あまねく根をはった「古くからの」憲法観なのである。だからこそ、これを簡単には実現させない真に新しい憲法観=立憲主義に基づく日本国憲法を改正し、「古くからの」憲法観をその呪縛から解放したいという大きな流れが押し寄せてきているのだ。(pp.92-93)
重要なのは、著者の示す「立憲主義」的な「個人」観だろう;

自分で決めたことを自分ですることのできる「自立」した個人が、国家=権力の干渉を受けずに暮らすことが憲法の保障する人権の本質である。立憲主義は、「自立」できるという意味で「強い個人」を想定するからこそ、国家=権力に「余計なことをさせない」ことを主張できる。
だから、「『強い個人』であるべし」と教わってこなかった僕たちは、立憲主義を、憲法の保障する人権を理解できない。(略)「憲法で個人の自由ばかり保障せず、もっと義務を定めよう」という主張が説得力をもつ。(p.105)
さらに著者の批判は「庶民」*1へも向けられる;

「弱者ぶりっこ」の「してもらう主義」もまた世代を超えて、蔓延している。たとえば、僕たちは世代を超えて「庶民」でいることが大好きだ。政治家や企業のトップの金銭感覚は「庶民にはついていけない」。「庶民」には難しいことはわからないけど、エリート官僚と政治家さんにきっとなんとかしてもらえるだろう。こうして自律的個人、市民、主権者としての責任は容易に放棄される。「弱者ぶりっこ」は楽でいい。そして、「庶民」でない人たちが政治・行政・経済を支配し、汚職に象徴される不正の温床ができあがる。「大卒」の「庶民」がこれほどたくさんいる国、家中の部屋にテレビとエアコンがある「庶民」がこんなにたくさんいる国も世界では珍しいと思うのだが、僕の勘違いだろうか。(p.112)

改めなければいけないのは、「してもらう」主義の傲慢な依存体質である。政治家であれ、教師であれ、親であれ、なんらかの意味で「権力」を持つ者がこの状況をなんとかしたいと思うなら、「弱者をまもる」自分に酔いしれ、余計な手をさしのべてスポイルしないことである。必要なことは、心を鬼にして「自立」を促すことである。(p.114)
さて、この本はあくまでも〈法学〉の本なのだと思う。勿論ないものねだりなのだが、本書に欠けているのは〈政治学〉だろう。著者のいう「立憲主義」は多分政治においては(狭い意味での)自由主義に対応しているのだろう。しかし、「弱者ぶりっこ」を「強い個人」にするにはどうすればいいのかを考えなければいけない。著者は一応、上に引用した部分に続けて、

他人の権利を害してはいけないということを社会の基本にするために必要なことは、「弱者ぶりっこ」を許さない厳しい目を持ち、「義務」も含めた無用な「保護」を与えてスポイルしないこと、「自立」した=自由な個人であることの素晴らしさ、楽しさをその厳しさとともに熱心に説くこと、みんなが「自立」の道を見つけるのをじっと待つことだ。もっともっと、自分と同僚への責任を必然的に伴う個人主義を称揚することである。(p.115)
とはいっている。ところで、現在著者のいう「「古くからの」憲法観」が蔓延していると同時に、新自由主義が(経済を超えて)蔓延しているともいえる。新自由主義者ならば、「弱者ぶりっこ」を市場原理の鞭によってしばき倒すことによって「強い個人」にすると主張するだろう。著者の主張はこのような傾向に抵抗するには十分ではない。新自由主義的な〈しばき〉ではない仕方で個人を強くするためには、立憲主義は参加民主と接合する必要があるだろう。
さらに、本書の欠点を論う。(哲学用語を使えば)現実存在と本質存在の区別が曖昧である。例えば、「国家=権力」と対立する「国民」という場合。この場合、「国民」とは集合名詞としての「国民」なのか、或いは(国籍を持つ)一人一人の様々なライフ・ヒストリーを抱えた個人なのか。そのせいか、「立憲主義」と「民主主義」との関係を論じた部分は議論がしっくりいっていないようだ。
また、

愛国心」という言葉で、ある時はこの日本という土地に住む僕たち国民がつくる共同体への愛が語られ、別な時はそれを統治する国家=権力への服従が語られる。国家=権力と国民を厳密に区別して後者を前者からまもることを目指す立憲主義の視点からすると、同じ「愛国心」という言葉で、まったく正反対の「国」への愛が語られている。国民共同体への愛はいたって自然な感情だが、国家=権力への服従は教え込まなければ身につかない。だから、国家=権力の担当者は、「自然な感情」をもつべきことを法で定めて「教育する」というふうに、両者をまぜこぜにしながら「自然な感情」を「服従」へと絡めとろうとしている。ここでも「モテない男」の論理は健在だ。(p.246)
という。この議論は現在の〈国民国家〉論の水準からすれば素朴すぎると言わなければならないだろう。また、「真正性の水準」*2からいっても。「国民共同体への愛」は「いたって自然な感情」なのか。基本にあるのは、それぞれの周囲にある風景であったり、馴染んだ習慣、伝統、文化というものである筈だ。「国民共同体」それ自体がそれらをダシにする仕方で想像される、或いは想像するように「教え込ま」れるものなのではないのか。以前、「国民共同体」(ネーション)「というのはどうも広すぎると同時に狭すぎるという感じがする」と書いた*3。また、「ネーションというのが私が参入している、或いは巻き込まれている諸々のコミュニティの一つでしかないということを肯定することが肝要かと思う」とも*4。例えば、著者は「ドイツ・サッカーワールドカップ予選、北朝鮮との無観客試合にタイ・バンコクまでかけつけて、スタジアムの外で日本代表を応援し続けたサポーター」に「感動」している(p.243)。しかし、その「サポーター」だって、日本という「国民共同体」に属していると同時に、サッカーという想像の共同体にコミットしている筈なのだ。
色々と論ってはみたものの、例えば櫻井よしこのような憲法理解*5が大手を振って歩いているという現状がある以上、本書は広く読まれる価値があるのだと思う。