「デザインの民主化」と「悪趣味」とか

妻が買った『ヴォーグ・ニッポン』12月号のJan Mastersのコラム『JAN SAYS』「悪趣味論」。そこから少し抜き書き;


でも、正直な話、「趣味」というのがいったい何を意味するのか正確に定義するのは、かなり厄介な問題。たとえばデザインには、シンプルさ、時代を超えた魅力といった、本質的に趣味が良いとされる基本原則があるとあなたは信じているかもしれない。でも、よくよく考えてみると、こうした信条を持っているということは、ほかならぬあなた自身が、特定の文化、教育、あるいは時代を映す鏡にすぎない、という意味なのかも。(p.320)

この10年来、社会では「デザインの民主化」と呼ばれる現象が起きている。つまり、ソファやスカートなどなど、お探しのものが何にせよ、値段はお手頃でそこそこのセンスのものが手に入りやすくなった。でも、かえって選ぶものは、没個性になりがち。と考えると、良い趣味をうまく取り入れるよりも、興味をかきたてるようなセンスを評価するべきときが来ているのかも。独創的なセンス、想像力を刺激するセンスを!(ibid.)

お金や社会的地位があっても、それだけで自動的に良い趣味が身につくわけじゃない。でも逆に、成金趣味が美しくないなんて、誰が言える?(p.321)
彼女によると、「悪趣味」とは「いきすぎている」こと(p.320)、つまり過剰であること、あざといことということになる。

ところで、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20081031/1225433387とも関係するのだけれど、服装の乱れとか言って、それを〈心の乱れ〉とかに結びつけ、さらに格差社会やら日教組やらに結びつけるというのはちょっと馬鹿なんじゃなかろうかという感じもする。所謂〈教育(学校)的に正しい〉ファッションというのは端的にださい。所謂〈服装の乱れ〉というのは「悪趣味」に走ることによって、そのだささに抗しているだけなのだ。また、教育関係者が好きそうな〈正しい〉ファッションというのは要するに、「悪趣味」に走る勇気がないか或いはまだファッション的にねんねなのか、どっちかであろう。
さて、1990年の柄谷行人*1というのは「想像力を刺激する」「悪趣味」だったのかどうか。