「それを個性とはよばない」

http://d.hatena.ne.jp/mari777/20081022/1224697313


曰く、


中学で国語を教えていたころ、時折、保護者から言われた。

「うちの子は個性的なので、先生の読みとはちがっていて、テストで○がもらえなくて」

そのたびに、それは個性とはよばないのです、誤読しているのです、と思った。

いうまでもなく、ここで言っている「先生の読み」とは、

この作品はここで感動しなくちゃいけない、とか、

ここからこういう道徳的な価値を見出さなくちゃいけない、という話では断じてない。

この作品は、当然、こう読めなくてはいけない、ということは、

たとえ本文にハッキリ書いていなくても、厳然としてある、とわたしは思っている。

そこのところが読み取れていない、ということは、

国語力、読解力が不足している、ということなので、

そこでとんちんかんなことを言うのは、「個性」でもなんでもない。

それに対して、

「うちの子は個性的だから正しい読みができないんですよ」という主張に対して、mari777さんが「それを個性とは呼ばない」と仰っておられるが、私なら逆に「それこそ個性です!」と言うと思う。

原初状態(というものがあるとすれば、だが)、『舞姫』だろうと『ごんぎつね』だろうと『資本論』だろうと『新約聖書』だろうとどんな「読み方」も可能だ。まさに、個性的な読解である。
http://d.hatena.ne.jp/terracao/20081025/1224876677

やはり、私は「「個性」でもなんでもない」というべきだろうと思う。しかし、それは「とんちんかん」だからでなく、逆に全く「とんちんかん」じゃないからだ。一見すると、「個性」に見えて、また「とんちんかん」に見えるかも知れないが、そういうものの大多数は、社会学的、心理学(精神医学)的、経済学的、或いは大脳生理学的に説明可能なことだろう。つまり、「個性」的で「とんちんかん」なのではなく、類型的で且つ筋の通ったことなのだ。筋の通った理論に還元することができないような「とんちんかん」に遭遇したとしたら、ただ唖然とするしかないだろう。そのような「とんちんかん」に遭遇できないこと、唖然とできないことこそ、問題とすべきなのだ。