「理から礼」(メモ)

小島毅朱子学陽明学*1からメモ。
清朝考証学とは、〈漢学〉という旗印を掲げた、朱子学陽明学*2への対抗運動であった」(pp.175-176)。傾向として「理から礼へ」と要約できる。


(前略)陽明学が説いたような、天理としての人間の良知というあやふやなものではなく、もっと確固とした形を持つ規準、すなわち礼教が秩序の拠り所とされた。そのため、夏殷周三代、すなわち太古の黄金時代の礼の制度・規定を復元する作業が、残された文献の緻密な読解を通じて試みられる。それには、経書の一言一句を、特殊な用語・名称を含めて理解していかなければならない。顧炎武によって扉が開かれた、古代漢字音の整理を中核とする名物訓詁の学が、多くの学者の心を捉えるようになっていく。(p.180)

教科書的な解説としては、考証学すなわち漢学は、朱子学陽明学をともに〈宋学〉として葬り去ったことになっている。しかし、事実はかなり複雑である。まず、礼制復元のため礼学研究を重視する彼らにとって、朱熹の『儀礼経伝通解』は尊重すべき書物であった。実際、江水『礼書綱目』などは、朱熹の方針を継承することを謳っている。また、恵棟の父恵士奇は、「経学においては漢代の服虔・鄭玄を尊重するが、倫理規範の面では程頣に遵う」と述べて、学術活動と日常生活とを区別している。これも多くの考証学者に共通する点であり、三大の礼制を復元することを標榜していながら、実際の生活では朱子学式の冠婚葬祭を使用していた。彼らは漢代の士大夫ではなく、宋代以降の近世的士大夫であった。(p.182)

朱子学のなかにその可能性がめばえ、陽明学において開花していた、経書よりも自分の〈心〉に重きを置く発想法は、清代の一部の学者には非常に危うい、独りよがりのものに見えた。そこで、彼らは経書を正確に理解する手法を確立していった。その〈例〉が、漢字の字形や音の研究に基礎を置く考証学である。したがって、考証学とは、教説内容において朱子学陽明学の教説に異を唱えることを初めから意図していたわけではない。問題はあくまで形式・手法の緻密さにあった。(p.183)

もちろん、こうした学知のあり方自体、良知に全幅の信頼を置く陽明学とは相容れないものとなるのは当然で、ここに清朝流儀の〈漢学〉と明代の趨勢であった〈宋学〉との教説上の対立が生じた。その際、〈漢学〉側は朱子学の性理学説(理気論・心性論)をも含めて、その根拠が誤った経書解釈に基づくものであるとの見解から、批判対象としての〈宋学〉の枠にくくることになった。そう批判された清代の朱子学は、性理学説の護持という立場をとることによって、〈漢学〉の敵方陣営に属することをみずから認めていった。こうして、〈漢学〉対〈宋学〉という図式が成立する。
(略)〈漢学〉と対立する立場を固守することで、〈宋学〉は本来の宋代・明代の学術とはまた異質な、独自の主張を持つものとなっていく。すなわち、〈漢学〉がことのほか重視した礼制。礼教の内実についての意図的な軽視である。(後略)(pp.183-184)

このことが、皮肉にも、近代において礼教批判が時代の主潮となるなかで、〈宋学〉が生き延びえた理由であった。〈宋学〉が説く秩序は、五倫五常というお題目だけで*3、それ以上の実質はなんら重みを持たず、意匠を変えることが容易であったからである。逆に、〈漢学〉のほうが、形としての礼教を背負い込んでいたために、実践的契機を持つ教説としては急速に力を失い、単なる好古趣味か、学術としての思想史・制度史研究へと変貌していくことになるのである。(後略)(p.185)

*1:Mentioned in https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2019/09/11/222303

*2:所謂「宋明理学」。

*3:この言葉遣いは日蓮系からのクレーム必至。