書き写すこと(メモ)

学問の方法 (岩波文庫)

学問の方法 (岩波文庫)

ヴィーコの『学問の方法』を踏まえて、吉田寛氏曰く、


つまり、手書きの本を手書きで筆写するときには、そしてそのときにのみ、われわれは著者とまったく同じ行為を繰り返していることになる。

読むだけの読書は、著者の著述行為の反復・模倣には決してならないが、著者と同じだけの時間をかけて、同じだけのインクと紙を使い、同じように手を動かしながら筆写することで、われわれの身体・思考はかつてその本を書いていた著者と完全に同期する。そのときわれわれは単なる読者の位置をこえて「純粋な著者それ自身に変わる」のだ。

なるほど、それは思いつかなかったわ。さすがはサイードもイチオシのヴィーコ先生。

写本・写経が普遍的に有している宗教的意義もおそらくはそこにあるに違いない。

印刷術以降の読書では、どう頑張っても、読者はせいぜい「理想の読者」どまりで、著者になり変わりようはないわな。

印刷術以前と以後で一番変わったのは、実はこれではないか。
http://d.hatena.ne.jp/aesthetica/20080112

ここで問題になっているのは「印刷術以前と以後」であるが、私は「印刷術」以後のコピー&ペースト「以前と以後」について思った。或いは、紙のテクストと電子テクスト。例えば、紙のテクストを引用のために書き写すとき、やはり「著者の著述行為の反復・模倣」を経験せざるをえないのではないか。「われわれの身体・思考」が「かつてその本を書いていた著者と完全に同期する」かどうかはともかくとして、テクストを一字一字書き写すとき、私は私とは異質なリズム(意識流の痕跡)に向き合い、それと何らかの折り合いを付けなければいけなくなる。その結果として思い知らされるのが「完全に同期する」ことの不可能性であったとしても。それから、吉田氏のいう「写本・写経が普遍的に有している宗教的意義」だが、もしかしてそれは或る種の禁欲に関係しているのかも知れない。テクストのリズムを私のリズムに完全に取り込んでしまうこと、つまり私が著者に取って換わってしまうことの断念。そうではなくて、あくまでもテクストのリズムに服従すること*1。このようなことは(たった今私が吉田氏のテクストに対して行ったようなコピー&ペーストでは生起しないだろう。
さて、学生のレポートに(ウェブからのコピー&ペーストによる)剽窃が多いというのは既にクリシェに属しているといえるだろう。勿論、インターネット以前から剽窃は多かった*2。しかし、上に書いたことを勘案すれば、コピー&ペースト「以前と以後」の剽窃には質的な違いがあることになる。つまり、理解していようがいまいが、ペンを持ちつつ、或いは鍵盤を打ちつつ、或るテクストに一字ずつ一定の時間向き合うということには意味があるということだ。

また、本に線を引くことに関するhttp://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061213/1165976741も参照されたい。

*1:それは〈労働〉としての写本についても言えるだろう。

*2:See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20071203/1196654410