モノとしての本へ

「読者と書籍購入者」http://blog.tatsuru.com/2009/01/07_1103.php


日本文藝家協会」がインターネットの検索エンジンの「書籍検索」に反対していることを批判しつつ、内田樹氏曰く、


もし著作物が一人でも多くの読者に読まれることよりも、著作物が確実に著作権料収入をもたらすことが優先するというのが本当なら、物書きは「あなたの書いた本をすべて買い取りたい」という申し出を断ることはできないはずである。買った人がそれを風呂の焚きつけにしようが、便所の落とし紙にしようが、著作権者は満額の著作権料を得たことを喜ぶべきである。
と言われて「はい」と納得できる書き手がいるであろうか。
ネット上で無料で読もうと、買って読もうと、どなたも「私の読者」である。
本は買ったが、そのまま書架に投じて読まずにいる人は「私の本の購入者」ではあるが、「私の読者」ではない。
私が用があるのは「私の読者」であって、「私の本の購入者」ではない。

読者の中には「本を購入しない読者」がいる。
図書館で読む人も、友だちから借りて読む人も、家の書架に家族が並べておいた本を読む人も、ネットで公開されたものを読む人も、さまざまである。
どれも「自分では本を購入しない読者」たちである。
だから、彼らの読書は著作権者に何の利益ももたらさない。
けれども、おそらく「本読む人」の全員はこの「本を購入しない読者」から、その長い読書人生を開始しているはずである。
私たちは無償のテクストを読むところから始めて、やがて有償のテクストを読む読者に育ってゆく。
この変化は不可逆的なものであると私は考えている。
私たちの書架にしだいに本が増えてゆくにつれて、そこにはある種の「個人的傾向」のようなものがくっきりと際だってくる。
書架は私たちの知的傾向を表示する。それは私たちの「頭の中身の一覧表」のようなものである。
だから、「本読む人」は必ず「個人的な書架」を持つことを欲望する。
その場合書架に並べられるのは、おおかたが購入された書物である。
図書館の本や借りた本やネットで読んだ本はそこにずっと置いておくことが出来ないからである。
もし物を書く人間に栄光があるとすれば、それはできるだけ多くの読者によって「それを書架に置くことが私の個人的な趣味のよさと知的卓越性を表示する本」に選ばれることであろう。
「無償で読む読者」が「有償で読む読者」に位相変換するダイナミックなプロセスにはテクストの質が深くコミットしている。
「この本をぜひ私有して書架に置きたい」と思わせることができるかどうか、物書きの力量はそこで試される。
原理的に言えば、「無償で読む読者」が増えれば増えるほど、「有償で読む読者」予備軍は増えるだろう。
内田氏のこの主張は全く正当なものだと思う。ただ、ここで書かれていない側面を思いついたので、書き留めておく。内田氏曰く、「「無償で読む読者」が「有償で読む読者」に位相変換するダイナミックなプロセスにはテクストの質が深くコミットしている」。勿論その通りなのだが、「深くコミットしている」のは「テクストの質」だけではない。というか、本(雑誌も含む)というのは二重の側面を持っている。一方では本は言語や画像というデータの集積だ。しかし、他方では本は紙を主原料とする工業製品(或いは工藝品)である。本を買うこと、それは紙を主原料とする工業製品(或いは工藝品)を買うということである。また、ネットで本の言語情報や画像情報が読めるご時世においては、この紙工藝としての本という側面は以前にもまして重要になる筈だ。そもそも言語情報だけならば、図書館で借りてコピーしたり、スキャンして、PCに貯め込んでおけばいい。にも拘わらず、本を買おうとするのは、紙工藝としての本ということへの拘りがあるのだと思う。さらに言えば、本はテクストを書く著者だけのものではなく、装幀などのブック・デザイナーのものでもあるのだ*1
ところで、バブルといわれるほど、あちこちの出版社で新書本が出ているけれど、新し目の新書では、アラン・チャンを起用した光文社新書とか平凡社新書のデザインはまあ好きだけれど、あとは電車の中で表紙を他人目に曝すのが恥ずかしいぞというものが多い。それで、結局、新書のデザインは、老舗である岩波新書中公新書*2講談社現代新書だよねということになる。これはいったいどういうことなのか。
かつては、下品だとか悪趣味だとかいう批判は無視して、とにかく派手な装幀で目立ったものが勝ちということもあっただろうけど、それもネットで中身(言語情報としての側面)がいくらでも検索できる時代には通用しないだろう。それも含めて、これから本においてはデザインの側面がさらに重要になってくるのではないか。
ところで、「日本文藝家協会」では「コラムや詩、短歌、俳句なら、1ページ読んだだけで作品の全体をただで読めることになります」といっている。しかし、詩の場合は、文字が書かれている部分と同等に何も書かれていない空白の部分が重要になる。そして、その空白は検索エンジンには引っかからないのだ。

本ではなく、モノとしてのCDについてだが、http://blog.livedoor.jp/skeltia_vergber/archives/50584283.htmlhttp://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080725/1216998184http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080728/1217262521もマークしておく。

*1:序でにいうと、amazonは紙の本をもっと売りたいなら、装幀者などの情報も記載すべきであろう。

*2:ただ、読売新聞社参入以後に発刊された「ラクレ」のデザインは下品だと思う。