木村忠正「「キュレーション型剽窃」の悪質さ〜若手研究者研究倫理の現状〜」https://tdmskmr.hatenablog.com/entry/2018/06/11/162008
「キュレーション型剽窃」という言葉を知る。
この「キュレーション型剽窃」というのは「やはり」ではなく、典型的な「剽窃」という感じがする。さすがに、完全「丸写し」というのは却ってレアだろうし、最近問題になった「剽窃」事件の弁明でも、参考文献表示や註を落としちゃったというのが多かったような気がする。かなり以前にも考えたのだけど、「剽窃」の蔓延を防ぐには、大学以前の中等教育における作文教育の転換を図るべきなのではないかとも思う。
これら「キュレーション型剽窃」がとくに悪質と感じるのは、他人の文章をそのままパクる部分もありますが、元の文章の一部を変えたり、つまみ食いをしたりすることで、「自分の文章だ」感を出そうとしているように見える点にあります。今回の審査論文ではないのですが、以前わたしが発見した本当に悪質なものは、ある論文をほとんど丸ごと用いていながら、徹底的に切り刻んで自分の論文としているものがありました。「丸写し」ももちろんダメですが、わたしのようなデジタル移民にとって、「キュレーション型剽窃」はより「悪質」に思えます。しかし、上記のような例をみるにつけ、デジタルネイティブ世代では、デジタル化された元の文書をアレンジして、自分のものにすることに抵抗感や罪悪感がないのかもしれません。切り刻むのは、やはり、どこかで自分のものにしなければという意識が働いているように思いますが、そうしてしまえば、問題ないのだといった認識があるようにも思われます。
しかし、まず、若手研究者、学生の皆さんに強調したいのは、「キュレーション型剽窃」は、やはり、「剽窃」であり、「学術倫理としてやってはいけないことだ」という認識をまずしっかりもってもらいたいのです。
剽窃をした学生の言い訳をきくと、「自分の思っていたことが書いてあった」といったことをいう場合があります。ですが、この言い訳は、「自分が(漠然と)思っていることを、具体的言葉にするのが、いかに大変か」ということであり、自分が剽窃した相手が、どれだけその表現に至るまでに考えたか、という想像力が一切欠けているのです。
レポート、論文を自分の言葉で書くことの大変さは、皆さん、十分身に染みて分かっていると思います。とすれば、安易に剽窃などすべきでないことも分かるはすです。その言葉を紡いだ他者に敬意をもって、きちんと言及する必要があるのです。
「丸写し」してきちんと、誰がどの論文(書籍)のどのページで言ったのかを明示すればいいのです。それを踏まえて、自分はどう考える、という論(こちらが主で、引用はあくまで従であることもいうまでもありません)を展開するから「論文」となるわけです。
丸写しでなく、自分が要領よくまとめた場合も、誰々のどの論文(書籍)で言われていることを自分なりにまとめる、と明示すればいい。それを一切言及せずに、適当にキュレーションして、自分の文章としてしまったら、それは元の著者への敬意を欠いた失礼な行為(著作権法違反にもなります)であり、けして(sic.)行ってはならないのです。
さらに、文明史的に考えれば、近代における過度のオリジナル信仰が却ってぱくりを誘発しているともいえる。
(前略)一般論として、学生のレポートに剽窃が多いという嘆きの声は多い。たしかにインターネットの存在がコピー&ペイストを容易にしたということはあるだろう。これについては、中学や高校の教育が悪いと言っておく。作文教育では、自分の心情や主張を書き表すことは重視されるが、論文或いは評論の基本である、他者の言説を引用し、それに対してコメントを付すという作法は教えない。文献引用の仕方や註の打ち方は作文教育では(或いは入試用の小論文対策でも)教えられない。しかしながら、レポートを課す大学教師は学生が論文執筆の形式的な基礎を既に知っていることを自明視している。このギャップがレポートにおける剽窃として現れているという側面はあるのではなかろうか。学生は悪意で剽窃しているというよりは、引用の仕方、註の打ち方を知らないということになる。(後略)
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20071203/1196654410
また、『保守速報』に関して、大阪高等裁判所が「引用」の創造性を認める判決を出したことは興味深い*1。
ところで、「キュレーション」というのが既にネガティヴな意味しか持たなくなっていることに驚く。というか、私は「キュレーション」という言葉から、博物館や美術館或いは画廊の展示の企画ということしかいまだに思いつかないのだった*2。