中村真一郎『女体幻想』

女体幻想 (新潮文庫)

女体幻想 (新潮文庫)

中村真一郎『女体幻想』*1を読了したのは1月下旬。


乳房
背中



茂み




解説(荻野アンナ「「女体幻想」幻想」)

「女体」を構成するパーツをタイトルとする短篇小説たちによって構成される連作小説で、本としてのタイトルが『女体幻想』。何てベタなんだ、と思ってしまう。荻野アンナ「「女体幻想」幻想」は「解説」というよりは『女体幻想』にインスパイアされたあまり出来がいいとはいえない戯作。70歳にならんとする作家/学者が自らの性遍歴を回想する。その回想は、時に自らの出生以前へとも遡る。回想なのにタイトルが『女体幻想』なのは、過去に追いやられ、或いは過去から這い上がってくる出来事(記憶)について、その事実としてのステイタスは、それが私の回想である限り、決定不能だからであろう。この本の主人公であり語り手である「彼」と作者の中村真一郎との関係については、戦後文学史修士論文や博士論文を書こうとしている人たちに任せておけばよかろう。最後の「顔」では語りが三人称から一人称に途中で転換する。その転換それ自体が短篇の重要な要素となっており、また没頭という世界に対する関係を巡る優れた現象学的考察(及び演劇論)になっている。
この連作小説を読む少し前に、「つまらないことを思い出してしまった」という渋谷陽一を批判したエントリー*2を読んで、何か書こうと思ったが、そのままほったらかしている。エロいエクリチュールの可能性と条件。『女体幻想』を読んでいても、思ったことなのだが、世間ではポルノ小説のことを遠回しに官能小説と呼んでいる。しかし、世の所謂官能小説が真にsensualな小説なのかということはあまり問われていないのではないか*3
中村真一郎というのは、読みたいのに読んでいないという作家のひとり。昔、『四季』を読んだのだが、しばらく続編を読まず、読もうと思ったら、その時には本屋の棚から消えていたということがあった。江戸漢詩の研究についても同じ。
四季 (新潮文庫)

四季 (新潮文庫)