〈物語〉を語る物語、など

砂の子ども

砂の子ども

ターハル・ベン=ジェルーンの『砂の子ども』*1を半月くらい前に読了したので、少しメモしておく。
この小説には2つの側面というか層があるように思われる。それは語られる物語という層とその〈物語〉を語る物語という層である。
先ずは前者から。仏蘭西保護国だった時代のモロッコにおける「アフマド」という子どもの誕生から始まる物語。因みに、この物語は主に「アフマド」が書いた手記からの引用という仕方で語られる。「アフマド」の父親は女の子しか作れない。あらゆる呪術的手段を尽して作った「アフマド」もやはり女の子だった。しかし、父親は無理矢理〈男の子〉ということにしてしまい、「アフマド」という男子名をつけ、〈男の子〉として育てる。「アフマド」が成人すると*2、父親は死に、「アフマド」は「ファティーマ」という娘と〈結婚〉するが、「ファティーマ」はほどなく死んでしまう。妻の死後、「アフマド」は家に引き籠り、そして(〈女〉としての自己を恢復しようと)家を出て旅に出る。そして、旅回りのサーカス一座の藝人となり、そこで老女「オーム・アッバース」の導きで、〈女〉としての性的快楽を発見する。そして、「ラッハー・ザハラ」という新しい名前を与えられる。
それと同時に紙の上で進行するのは、上述のような「アフマド」の物語を「講釈師」が「旧市街」の広場で、「アフマド」の書いた手記*3を引用しながら語っていくというストーリーである。ところが、途中で(語り手である筈の)「講釈師」は小説の中から忽然と蒸発してしまうのだ。


講釈師が姿を消してから、八ヵ月と二十四日がたった。物語を聞きに来ていた人々は、彼を待つのをあきらめた。彼らを結んでいた物語の糸が切れると、彼らは散り散りになった。実際、講釈師も、曲芸師や妙な品物を売っていた商人たちと同じように、広場を立ち退いたにちがいなかった。地方自治体は、若い技術官僚が勧める都市計画にしたがって、広場を「一掃」し、そこに音の出る噴水を造ろうとしていた。その噴水は、毎週日曜に、ベートーベン第五交響曲のボ・ボ・パ・パという音に合わせて水を噴射するというものだった。広場はきれいになった。蛇使いも、ロバの調教師も、曲芸師の弟子たちもいなくなった。旱魃の後、南部からやってきた乞食も、藪医者も、釘や針を呑み込む芸人も、酔いどれの踊り子も、一本足の綱渡りもいなくなった。十五のポケットが不思議な長衣もなくなった。トラックにぶつかって事故を装う少年も、呪いをかけるのに使う野草やハイエナの肝を売る「青い男」も。元売春婦の占い師もいなくなった。若い娘たちを魅惑したフルート奏者もいなくなった。蒸焼きにした羊の頭を食べさせる店もなくなった。歯が抜け、目の見えない歌手もいなくなった。その歌手は、もう声が出なかったが、カイスとレイラの情熱の恋を歌うことに執着していた。良家の息子たちにいかがわしい絵をちらつかせていた男たちもいなくなった。広場には何もなくなった。そこはもう周回路ではない。何の役にも立たない噴水のための更地にすぎなかった。停車場も町の反対側に移転した。ただクラブ・メッドだけがその場所に残った。
講釈師は、悲しみのあまり死んでしまった。彼の遺体は、涸れた泉のほとりで発見された。涸れは胸に本を抱いていた。それはマラケシュで見つかったアフマド・ザハラの日記だった。警察は、涸れの遺体を規定通り、一定の期間、死体安置所に置き、それから首都の医療機関に預けた。日記は、年老いた語り手の衣服とともに焼かれてしまった。だれもこの物語の結末を知ることはできない。だが、物語というものは、最後まで語り継がれるものなのだ。(14「サーレムが語る」、pp.130-131)
中上健次的に言えば〈路地の消滅〉!? 再開発から幸運にも取り残された「路地裏の小さなカフェ」(p.131)で、3人の人物が「アフマド」(「 ラッハー・ザハラ」)の物語を語り継ぐことになる。先ずは元黒人奴隷の「サーレム」(14章)。それから「アンマール」という男(15章)。そして、「ファトゥーマ」という老女(16章)。「ファトゥーマ」という老女は実は〈主人公〉たる「アフマド」(「 ラッハー・ザハラ」)なんじゃないかなという疑念を読者に起こさせる――

(前略)私は自分のことを書いておいたノートをなくしてしまった。書き直そうとしたが、だめだった。そこで、私は過去の人生の物語を探しにでかけた。その続きは、あなた方も知っている。講釈師やあなた方の話を聞くのは楽しかった。こうして私は、二十年もたってから、人生の一こまを再び経験するという幸運に恵まれた。疲れてしまった。どうかお引き取り願いたい。おわかりのように、私は老人だが、それほど歳をとっているわけではない。二つの人生を背負うなどというのは、尋常なことではない。私は目がくらんで、現在の糸を見失い、あの光輝く庭に閉じ込められてしまうのではないだろうか。その庭からは、たった一つの言葉さえ抜け出すことができないのだ。(p.165)
「ファトゥーマ」が語り終わっても小説は終わらない。それを聞いていた「目の見えない男」が語りを始める。このブエノス・アイレスにも滞在していたことがある盲目の男からは、あのボルヘス*4を思い出さざるを得ない。そして、19章「砂漠の門」では、これら4人の語りを聞いていた「灰色の目をした男」(p.194)・「青いターバンの男」(p.197)が登場する。彼は「広場から追われ」た男(p.196)。死んだ筈の、あの「講釈師」? 彼は既に死んでいる亡霊なのかも知れない。彼は「アフマド」の父親(の亡霊)や「アフマド」の妻・「ファティーマ」(の亡霊)に会った話をする。さらに、「アレクサンドリアの女」に会って、「ベイ・アフマド」の話を聞き、その女から「ベイ・アフマドの日記」を託されたということを語り、小説は取り敢えず終わりになる。しかし、実際には終わらないだろう。また次の語り手が現れる可能性があるからだ。実際、他の4人の語りが地の文なのに対して、「青いターバンの男」の語りは括弧で括られた会話文で表されている。ということは、彼の語りを聞き取り、それを括弧で括った語り手が存在しているわけだ。さらに、その語り手の語り手、 その語り手の語り手の語り手、 その語り手の語り手の語り手の語り手、 その語り手の語り手の語り手の語り手の語り手、 その語り手の語り手の語り手の語り手の語り手の語り手、 その語り手の語り手の語り手の語り手の語り手の語り手の語り手、 その語り手の語り手の語り手の語り手の語り手の語り手の語り手の語り手、 その語り手の語り手の語り手の語り手の語り手の語り手の語り手の語り手の語り手……という果てしない〈語り手〉の連鎖の存在を予想させるというか、読者が語りの迷路の真っ只中に取り残されたということを思い知らせつつ、小説は終わってしまうといえる。
この小説は勿論、父親と予め去勢された息子=娘の葛藤というエディプス或いはエディパの物語としても読めそうだが、そういうのは精神分析に詳しい方が既にやっているのだろう。
ところで、鮮烈だったのは「月」のイメージ。月とエクリチュールの対立。「青いターバンの男」の男が「アレクサンドリアの女」に託された「ベイ・アフマドの日記」の内容は蒸発してしまった。月の光によって;

彼は話を続けた。「この本には何もない。すべてが消え失せた。おれは迂闊にも、満月の夜にこの本を開けたのだ。満月の光が、言葉を一つ一つ消していった。時間がこの本に託したものは、もう何も残っていない……もちろん、断片や、いくつかの言葉は残った。月がわれわれの物語を奪い去った。容赦なく奪われ、月によって破滅に追いやられた講釈師に、いったい何ができるというのか。おれは、沈黙と逃走と放浪の運命を強いられ、なんとか生きてきた。忘れようとしたが、それはできなかった。おれは贋医者や盗賊に出会った。街を占領した遊牧民の一団の中でさまよった。旱魃にあい、家畜が死に、平原の民は絶望した。おれは北から南へ、南から無限へと、国じゅうを巡った」(p.196)
言葉或いは物語をすべて吸収してしまう月は同時にあらゆる言葉或いは物語の源泉でもある――「皆さんの中で、話の続きをどうしても知りたいという人がいるなら、満月の夜に、月にたずねてくれ」(p.204)。

因みに、ターハル・ベン=ジェルーンの『娘に語る人種差別』は最良のレイシズム(批判)入門書。

娘に語る人種差別

娘に語る人種差別