浅田家のルーツ

浅田彰*1のコラムが「浅田彰のドタバタ日記」と題して、RealTokyoというサイト*2に連載されている。その第4回*3では、浅田家のルーツが讃岐にあることが語られている。曰く、


浅田家は牟礼の庄屋で、医者めいたこともしていたという。で、祖父の浅田孝太郎が東京大学に進んで医学を学び、時代は下るが『ぼっちゃん』(夏目漱石)を思わせる形で香川ならぬ愛媛の松山の日本赤十字病院に赴任した、というわけだ。そこで三人の子どもが産まれ、末っ子の浅田享、つまり私の父は、祖父をついで医師になった。しかし、長男の浅田孝は東京大学に進んで新進の助教授だった丹下健三に建築を学び、戦争中、海軍将校として飛行場施設の建設やダムの修理–そして被爆した広島の救援などに走り回ったあと、戦後、大学に復帰し、やがて丹下健三研究室を支える存在となったのだ。今治の空襲で母を失った丹下健三広島平和記念公園をつくったとき、松山の空襲で実家が焼失した(ただし死者・負傷者はいなかった)浅田孝がアシスタントを務めたというのも、不思議な縁ではある。
以前、四方田犬彦氏が浅田彰空海の末裔だと言いふらしていたと書いたが*4、取り敢えず讃岐という接点はあるわけだ*5浅田飴の浅田宗伯先生*6とは取り敢えず無関係。
なお、テクストの後半では主に讃岐の牟礼にアトリエを構えたイサム・ノグチについて語られている。