名前そして自己など

野原さん曰く、「いま生きていることはどんな場合も「偽りの生」である」と*1仏教徒でありながら現世に執着する私としては、私が自らの身体や脳で関わってきた(いる)生*2が、いくらそれらが情けなくて、或いは欺瞞に充ちたものであったとしても、「偽りの生」だとはいいたくない気がする。寧ろ、そういうのを引っくるめて、本当の生だと言ってしまいたい。ただ、嘘も何も全部引っくるめて肯定して・引き受けるRosewater的な仕方もあるのだが、そのような強者ではありえない。因みに、どんな生でも自分だけが関わっているのではなく、誰かしらの他者とともにある。

さて、張江さんが

ところで、「インターネットと多重人格」とを関連づける想定は、まぁ、旧いといえば旧い話題ではあるが、やはりかなり本質的な関係があるとみたほうがよいようにおもう。
 とはいえ、「私」の多重性は、近代人よろしく、今もなお、本人の自己像の範囲内では、秘匿的にのみ現出している。
http://harie.txt-nifty.com/annex/2008/08/post_e70b.html
と述べられている。「多重人格」という言葉を読んで、一瞬違和感を感じたということはあるのだが、よく考えてみれば、「多重人格」というのはウィリアム・ジェームズも考察しており(ここでは『心理学』と『宗教生活の諸相』の前半をマークしておく)、張江さんが「多重人格」という言葉を使うとすれば、ジェームズ→シュッツという線で思考されていると推測できる。
心理学〈上〉 (岩波文庫)

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心理学〈下〉 (岩波文庫)

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宗教的経験の諸相 上 (岩波文庫 青 640-2)

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思いつきを書けば、「多重人格」の問題は私が私を知ることはできるのかという問題に繋がっているのではないか。また、上で「どんな生でも自分だけが関わっているのではなく、誰かしらの他者とともにある」と書いたが、ミードのI/Meのダイナミズムによれば、それぞれのMeは私に対する他者の知覚・反応が私によって内面化され、意識されたものだといえるかも知れない。「人格」の「多重性」に見えるのは、実は他者の「多重性」によっているのではないかとも思える*3。さらに、これはレリヴァンスについてシュッツが考えていたことの、その先に繋がるんじゃないかと思ったりするのだが、これは完全に思いつき。