「製作品の世界」(メモ)

承前*1

共同存在の現象学 (岩波文庫)

共同存在の現象学 (岩波文庫)

カール・レーヴィット『共同存在の現象学』II「共同相互存在の構造分析」第一部「共同世界と「世界」ならびに「周囲世界」との関係」第5節「周囲世界のうちに共同世界があらわれること」a「製作品の世界として」。
ここで、先ず「周囲世界」がより広い意味において捉え返される;

ほんらい私たちと共にというしかたではなく、私たちの周囲でというかたちで生き、手もとにあり、また手まえにある(zuhanden und vorhanden ist)世界を、私たちはもっとひろい意味での周囲世界と名づけることにしよう。その場合、周囲世界のうちに共同世界が立ちあらわれるしだいをめぐる問題は、ふたつに分かれることになる。(1)*2自然的に息づいている周囲世界のなかに、人間的な生の関係がどのように立ちあらわれるか。(2)人間がつくり上げる製作品の世界のなかで、人間的な生の関係がどのように立ちあらわれるのか。(p.85)
ここでは先ず(2)の問題が論じられる。

実践的な生の関心にあって、人間たちは互いに依存しており、共同でいとなんでいる仕事のために相互に理解しあわなければならない。道具を使いこなす単純な行為、たとえばノコギリで木を挽くといった行為は、その目的が理解されるだけで理解可能となる。行為の目的がそこから生じる、生の連関の全体へと立ちかえることは、そこでは必要ではない。家具が調度品としてぞくしている人間的な生に対して、その家具が有する間接的な関連から、ひとつの部屋に置かれた家具は理解可能なものとなる。生への従属が、これら家具を存在させ了解させるのであり、この従属を見すごすなら、家具は「ばらばらで無秩序に」ならべられていることにもなりうるだろう。家具は、それ自身としては特定の配列をもたないからである。(p.86)
レーヴィットはここでは基本的にディルタイに依拠しているが、ハイデガー存在と時間』への参照を指示している。第15節「環境世界で出会う存在するものの存在」。さらに、レーヴィットはここから〈系〉として6つの項目を並べている(pp.87-95);

1 共同相互存在は、それ自身たいていは製作品によって(物件を介して)媒介されている(zumeist werkhaft (sachlich) vermitelt)*3。共同相互存在はたいていの場合、直接には〈私〉と〈きみ〉とのあいだの「人格」的な関係ではない。人格的関係ならば、共に存在することの目的が共に存在することそれ自体のうちにある。そこでは〈きみ〉自身が、私が−きみと−共に−在ることの目的なのであって、その関係はただ感覚とことばによって媒介されているだけなのである。
2 製作品によって(物件を介して)ひとつにされたこの共存在にあって、一者は他者を、両者の共存在にぞくするなにのために――その物件を介した「目的」――から理解する。そこで理解不可能なことがらが立ちあらわれたときはじめて、よりひろい生の連関へと還帰することが動機づけられるにすぎない。さしあたりひとが相互に知りあい接近するのは、共に存在することのそのつどの目的、つまり〈なにのために〉が要求するところを超えないし、それを下回ることもない。
3 これに即応して、共通な作業にぞくする目的に対する「手段」、その手段を介しあるいはその手段によって(Womit)ある仕事が遂行されるもの、つまり道具が、(その道具が人間に役だつ)なにのために(Wozu)から理解される。ノコギリや椅子がなんであるかは、なにのためにそこにあるかによって理解されるのである。すなわちノコギリなら挽くために、椅子ならば坐るために、そこにある。坐ることを知らない者は、椅子さえも理解しない。(後略)(pp.87-88)
残りは次回。
ところで、「製作品」は、後にサルトルにおいては、(例えば)ペーパー・ナイフをネタにしながら、実存と本質の関係の問題として議論されることになるだろう(『実存主義とは何か』)。また、澤田直『新・サルトル講義』(p.63ff.)、海老坂武『サルトル』(p.78ff.)を取り敢えず指示しておく。
サルトル全集〈第13巻〉実存主義とは何か (1955年)

サルトル全集〈第13巻〉実存主義とは何か (1955年)

新・サルトル講義―未完の思想、実存から倫理へ (平凡社新書)

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サルトル―「人間」の思想の可能性 (岩波新書 新赤版 (948))

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