ジンメルを呼べ?

承前*1

そういえば、「疎外」も流行りなのか。
「疎外」というのは一方では誰もが疎外されてるぅといじければみんな疎外になってしまうという恣意的な概念になるか、恣意性を避けようとすれば怪しさ(妖しさ)満点の本源性なるものを持ち出すしかないという、どうしようもないものだと思っていた。そのようなディレンマに陥ることなく「疎外」を語るには、マルクスではなく、ジンメル(或いはディルタイ)を呼び出すべきなのかも知れない。
秋元律郎『マンハイム 亡命知識人の思想』から、ジンメルの「近代文化の葛藤」を孫引きしてみる;


生の創造的活動が若干の形象をつくりだすとき、われわれは文化について語っているのであって、これらの形象に生の創造的活動の表現、つまりその現実化の諸形式がみられ、またこれらの形象は、あとからくる生の流れをとり入れ、この流れに内容と形式、舞台と秩序を与える。(略)生の諸過程からうまれたこれらの産物には、それらがその成立の瞬間に、すでに生そのものの休むことのないリズム、生の成長と滅亡、生の不断の更新、生のやむことのない分裂と再結合にはもはや無関係に独自の確固たる存続をつづけるという特徴がある。(略)これらの産物は、その創造の瞬間には、おそらく生に対応するが、しかし生がさらに進展するにつれて、生にたいしてかたくなな疎隔をしめし、いや、生に対立するのがつねである。(阿閉吉男訳、pp.76-77に引用)
因みに、生によってつくりだされる「形象」は、社会制度、アート、宗教、法律、学問などを含む。ところで、上のような意味での「疎外」は一概に否定すべきものなのだろうか。文章を書く。それに読者が著者も思ってみなかったような解釈を施す。これは著者にとっては「疎外」だろう。しかし、これって否定すべきことか*2。また、中国語では「疎外」は異化だが、これはガキが親に反抗するということについても使う。これも一概に悪いことだとはいえないだろう。
さて、alienationは社会契約との関連で使われてきたということもあるが、最初の「疎外」論の作品ということだと、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』ということになるか。
フランケンシュタイン (創元推理文庫 (532‐1))

フランケンシュタイン (創元推理文庫 (532‐1))