「ストリートビュー」から外れて

承前*1

ストリートビュー」という奴、日本の実家について試してみた。結果は「ストリートビュー」の範囲外だった。前にも書いたように、家の前の道路が公道ではなく私道だからだろう。これから、「ストリートビュー」の範囲内か外かで不動産価格が変わってくるということもあるのだろうか。
さて、「ストリートビュー」を巡る意見では、


http://cyborg.relove.org/blog/street_view.html
http://cyborg.relove.org/blog/fuck_privacy.html


が圧倒的に面白かった。特に後者。曰く、


例えば街角写真です。
 最近では、子供の写真もウカウカ撮れません。取り澄ました法律やらマナーやらを守っていては、面白いスナップなど撮れるわけもありません。といっても、逆に「表現の自由」などというこれまたセコい話をしようというのではありません。
 名前を失念しましたが、歌舞伎町などでヤクザの写真を撮りまくっている写真家がいます。この人はヤクザの眼前一メートルくらいまで接近して、夜の歌舞伎町でフラッシュを炊いて写真を撮っているそうです。当然、トラブルは耐えません。ボコボコにされたことも一度や二度ではないようです。
 こういう写真を撮る時、彼は「プライバシー」とか「表現の自由」とか、そんな水準でものを考えているのでしょうか。少なくとも、撮られるヤクザは「プライバシー」が侵害されたとか、高級なことは考えていないでしょう。なんかムカつくから殴るのです。
 そして撮る側も、殴られてもいい、いや、できたら殴られたくないけれど、でもやっぱり撮らずにいられない!という理不尽な衝動に駆られて接写してしまうのです。
それに対して、「ストリートビュー」の場合は、

だから、正直「プライバシー」とか「表現の自由」とか、そんな話は心底どうでもいいのです。何がムカつくかといったら、愛がないから腹が立つのです。
 撮りたいなら撮ればいい。でもハッキリ言って、別に撮りたいわけでも何でもないんでしょう? 車にカメラ乗っけて、しゃら〜と流しているだけなんでしょう? 見る人も根性入れて見るわけじゃないんでしょう?
 それじゃぁ、貧乏長屋から愛憎をマイナスしただけの状態で、満員電車と同じくらい「無駄にむぎゅー」なだけじゃないですか。セックスしたくないのにレイプしているみたいで、意味がわからないですよ。犯すなら、ちゃんと犯せ。
さらに、

そんなことを言ったところで、セックスレスでフニャチンの白人には暖簾に腕押しでしょう。犯す気がないなら、こっちが強姦するまでです。
 ストリートビューを愛あるものにする唯一の方法は、総力を挙げてGoogleの撮影車の特徴をつかみ、発見次第圧倒的なテロルによりこれを殲滅することです。「圧倒的なテロル」というのは修辞的表現なので、もうちょっとわかりやすく言うと「ボコボコにして恥ずかしい写真を撮って晒す」くらいの意味です。殺してはいけません。
ストリートビュー」を肯定する意見って、だいたいが素朴な実用主義に基づいていると思う*2。そうした素朴な実用主義に対して、プライヴァシー云々ということで対抗するのは有効なのか。多分それよりも、「ムカつくから殴る」という方が有効であるような感じがする。
ところで、「ストリートビュー」というのはアートのネタとしては面白いものを持っていると思う。しかし、アートとして考えると、今のやり方は藝がなさすぎる。例えば、カメラを手で持って、手ブレ感を出すのはどうか。『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』だ。また、犬目線の「ストリートビュー」とか。当然、ボケボケのモノクロ画面になる。犬といえば、犬の嗅覚による空間の構成を視覚化できたら面白いと思う。

さて、日本の〈家〉の構造の変容について書こうと思ったが、それは別途に書くことにする。
それにしても、既に1960年代に『48億の妄想』を書いた筒井康隆は偉かったというべきか。

48億の妄想 (文春文庫)

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