プライヴェート、コミュニティ、パブリック(メモ)

承前*1

http://d.hatena.ne.jp/essa/20080808/p2


ストリートビュー」に絡んで、山岸俊男氏の『安心社会から信頼社会へ』*2を援用して、「安心社会から信頼社会への移行をグーグルが強制している」と説く。山岸氏のこの本は、企業活動において取引業者との長期に亙る関係を通じて取引費用の軽減を図ることへの言及もあり、所謂〈日本的経営〉というか戦後日本的資本主義の危機を踏まえて書かれているということはあるのだが、山岸氏のいう「安心」と「信頼」の対立ということそれ自体は、例えばマックス・ウェーバーを踏まえてタルコット・パーソンズが提出した特殊主義vs. 普遍主義という形相変数の反復ではあろう。

安心社会から信頼社会へ―日本型システムの行方 (中公新書)

安心社会から信頼社会へ―日本型システムの行方 (中公新書)

さて、

自分なりに別の観点から整理してみると、
(A) 二車線以上の道路や駅などのパブリックな空間
(B) 路地のようなコミュニティの空間
(C) 家の内部のようなプライベートな空間

と分けた場合、アメリカでは、(A)と(B)の境界は不明確で、(B)と(C)の境界がきっちり仕切られている。路地だからと言って「安心」できるわけではなくて、家の外であれば、そこは駅や繁華街と同等である。しかし、(A)(B)両方ひっくるめてほぼ同じレベルで「信頼」している。

日本では、(B)は「安心」できる空間であって、「安心」も「信頼」もできない(A)とは全く別の性質の場所だ。だから、(A)と(B)の境界が重要で、その代わり(B)と(C)の境界がぼんやりしている。

ストリートビューは、(B)のコミュニティの空間を(A)のパブリックなレベルと同等にするものであり、(A)と(B)の境界を重視する日本において大きな衝撃となる。

先ず、これは日本全国で普遍的にいえるのかどうかはわからないが、(多くの場合)「路地」というのは土地制度上は私有地です。というか、周辺の住人が自らの私有地を供出して共用部分としたもの。だから、公道ではない。
ところで、米国ではどうなのだろうか。http://d.hatena.ne.jp/michikaifu/20080810/1218408615とかを読むと、現在でも米国人にとってコミュニティというのは空間的というよりは時間的に(例えば、日曜日の教会での礼拝として)存在しているのかと思ってしまう。それはともかくとして、上に引用した、米国人にとって、「コミュニティ」と「パブリック」の境界が曖昧というのは少し疑問だ。例えば、ゲーティッド・コミュニティ。そもそも都市というのは(西洋でも中国でも)城壁に囲まれたゲーティッド・コミュニティであって、その後都市空間の拡大によって都市の城壁は多くの場所で消失してしまった。そして、都市の内部に(例えば集合住宅という仕方で)無数のゲーティッド・コミュニティが成立することとなった。そもそも近代社会内部の空間的な分割をprivate/publicで語ることはできないと思うのだが、それは後に語るとして、そういうゲーティッド・コミュニティの住人にとっては、上でいうところのAとBの区別は明確なんじゃないだろうか。http://d.hatena.ne.jp/nessko/20080806/p1で語られたことを参考にして考えてみると、「ストリートビュー」というのは〈ゲート〉によって守られる人と守られない人との格差を顕わにしてしまう可能性がある。因みに、所謂ホームレスな人の存在がヴァルネラブルなのはその人たちが〈ゲート〉によって保護されていないことによることもある。
さて、

それと、おそらくアメリカでは「パブリック」であるということは「みんなのもの」ということになるのだけど、日本では「みんなのもの」と言う時には「コミュニティのもの」を意味していて、「パブリック」という言葉は「お上のもの」という風に理解されているのではないだろうか。つまり、日本にはコミュニティの外部にある「みんな」という概念がなくて、「パブリック」という概念を本当の意味では理解してないのである。

グーグルのサービスはストリートビューに限らず、「パブリック」な領域を広げ、不特定多数の他人への「信頼」を強制する性質があるので、「安心社会」とは相性が悪い。

たしかに、日本では江戸幕府のことを御公儀と呼んでいた。しかし、それは別に日本社会だけの問題ではない。「お上」と「パブリック」、或いはofficialとpublicとの混同は日本に限ったことではない*3。哲学的にいえば、ヘーゲル(とそれを継承したマルクス)が悪いともいえる。また、アレント(たしか『革命について』)に言わせれば、「お上」と「パブリック」の混同問題は二大政党制と多党制の違いに関係があることになる。ハンナおばさんはそもそも政党政治なるものを認めないが、それでも英国流の二大政党制を次善として推奨する。そこでは与党も野党も常に私的利害だけでなく、(全体としての)公的利害を考慮しなければならないから*4。それに対して、多党制は一党独裁と差不多であるという。有象無象の政党があっても、それらは皆私的利害を主張しているとしか見なされず、そこから私的利害を超越しているのは国家であるという考えが生まれる。諸々の私的利害を、官僚様が公的利害を考慮しつつ、善導・調整するという考え。まるで、子どもたちの我が儘を捌く大人のように*5
On Revolution (Classic, 20th-Century, Penguin)

On Revolution (Classic, 20th-Century, Penguin)

上で、「そもそも近代社会内部の空間的な分割をprivate/publicで語ることはできないと思う」と書いた。近代社会(資本家的生産様式が支配的な社会)というのはそもそもがprivateな社会であるともいえる。近代資本主義の神話的起源であるエンクロージャーを想起されたい。至る所が私的企業=事業(private enterprise)によって囲い込まれた社会。街を歩いていて出会すのはパブリックではなくプライヴェートなのだ。このような社会においては一方では上に見たような国家や官への期待が高まるとともに、プライヴェートの方も変容が起こる。それは親密性、さらには内面性への引き籠もりであろう。つまり、private/publicの対立ではなく、intimate/socialの対立。だから、「ストリートビュー」への反撥というのは、コミュニティ的な「安心」がなくなるということよりも、寧ろintimateな領域への脅威ということなんじゃないか。だから、「パブリック」を宣揚したいのなら、intimateな領域が侵されることへの不安の反応を批判するのではなく、知的所有権だとか何たらによって何でもプライヴェートに囲い込んでしまう傾向こそを批判すべきだろうと思う。
ところで、http://d.hatena.ne.jp/umeten/20080812/p1だけれど、このエントリーの最大の功績は、日本における「表札」の起源を巡っての、岡田憲治「徴兵と表札」*6というテクストを紹介したことにあると思う。

また、蛇足だが、英国社会(広く西洋社会)において、個人のintimateな領域と外的な社会との間のバッファーとして、倶楽部というのが重要なのだろう。先日、日本において「フリーメイソン」に対する妄想が強いということを書き*7、その要因の一つとしては、「フリーメイソン」についての新書レヴェルのまっとうな本がないということを挙げた*8。さらに、日本において、英国流の倶楽部という存在への馴染みがないということもあるのかなと思った。たしか、この倶楽部というのを鍵言葉にして、西洋と中国と日本の比較文化論をしていた中国系米国人の文化人類学者がいたけれど、誰だったっけ。

*1:http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080809/1218295202

*2:http://vanillachips.net/archives/20060910_2121.phpに紹介あり。

*3:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061008/1160281242 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061031/1162317330

*4:山口二郎氏が英国流を推奨するのも同様の認識があるからだろう。See eg. 『イギリスの政治 日本の政治』。

イギリスの政治 日本の政治 (ちくま新書)

イギリスの政治 日本の政治 (ちくま新書)

*5:日本が二大政党制なのかそれとも多党制なのか、はたまた一党独裁なのかは議論の分かれるところであろう。ただ、昔梶田孝道氏が行ったキャリア官僚研究によれば、日本でも、私的な利権=政治家/公的な利害=俺たち官僚という官僚の自己認識は見られる。この研究の一端は、吉田民人編『社会学』に収録されていたか。

社会学―社会科学への招待 (1978年)

社会学―社会科学への招待 (1978年)

*6:http://www.builder-net.com/yajiuma/yajiuma045.html

*7:http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080729/1217347380

*8:これについては、「たんぽぽ」さんから御教示を受けた。この場を借りて、お礼を申し上げる。http://taraxacum.seesaa.net/article/104478891.html