構造か運動か、など

大野左紀子さんの「三次元ヌードへの拒否反応」というエントリー*1が話題を呼んでいるようである。既に312個のブックマークと41個の星印が付けられている。
そのブックマーク・コメント*2の中に、


2008年07月14日 raitu anime, art, comic, オタク 個人的には、「昭和的なもの」の拒絶、すなわち黒澤明寺山修司に代表される「全てを丸々描く」写実主義自然主義への拒絶と、日本画的な記号主義、削ぎ落とし文化への傾倒が起きてるんじゃないか、とか
というのがあり。面白いと思うと同時に、よくわからない。黒澤明寺山修司って、同じ資質を持った映画作家なのか。果たして、「写実主義自然主義」なのか。寺山の場合、遺作となった『さらば箱舟』、或いは役者に菅原文太清水健太郎を起用した『ボクサー』を観ても、上の方の言葉を使えば「記号主義」的な作家なのではないか。寺山の映画における代表作である『田園に死す』は言うまでもない。
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それはともかくとして、「日本画」が言及されているのは面白い。素人なりに言えば、画学生が人体のデッサンの修業をしなければならないのは、解剖学的な構造を身体的に把握するためであろう*3。西洋のアカデミックな絵画が構造を重視するとすれば、日本や中国の東洋画で重視されるのは運動であろう。理に対する気? 以前東京で和蘭絵画を観て、

また、展示された作品を観ていて、改めて思ったのは、大方の作品で人物の運動がぎこちなく感じるということだ。というよりも動きが止まっている感じ。初期の写真術では、被写体は動きを止めて長い間カメラの前に立ちつくしていなければならなかったが、これらの絵画も、実際の動きを切り取ったというよりは、描かれている人間(それに動物)がポーズを取りながら、一斉に身体の動きを止めてしまったという感じを抱かせる。こうした感覚は、中国や日本の絵画を観た場合には引き起こされない。
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20071119/1195473914
と書いたことがある。実際、暴論かも知れないが、印象派以前の西洋絵画は動きがないという一点で、平均的な日本や中国の絵と比べて駄目なんじゃないかと思っている。或いは、印象派以降、ようやくヨーロッパが亜細亜に追い付いた。日本画の世界では、運動の体得のために、春画を描くことが裏の修業として欠かせないものだったという話は聞いたことがある。
ところで、アニメと二次元/三次元ということだと、米国におけるピクサーのような展開*4というのはどうなのだろうか。これって、マルティカルチュラルな米国とモノカルチュラルな日本との分岐ということでよろしいんでしょうか。
ところで、表現の問題としてではなくセクシュアリティ、欲望の対象としての「二次元」の問題について、白熊さんが書いている。曰く、

(前略)ここ最近の“ノイズの少なすぎる”萌えキャラクターに馴染みすぎた人にとって、三次元の異性は、あまりにもノイズや剰余の多すぎる、まさに気持ち悪いものに感じられても不思議ではないと思う。特に、思春期に入るか入らないかの頃、初恋の相手をみつけるよりも早く美少女キャラクターを消費することを知ってしまった人達にとっては、「なんでこんな気持ち悪いものを視なきゃならないのか」ということになっても不思議ではない。西暦2000年に12歳だった人も今では20歳、異性とのファーストコンタクトが三次元ではなく二次元という人や、初恋の相手が現実の異性よりも“遙かに理想的な”美少女キャラクター、という人は、現にいると思う。いや、想像力の豊かな人の場合はもっと年上のオタク男性のなかにもいると思う。というか、私はそういう人を現に何人も知っている。その手の人達にとっては、二次元の異性は三次元の異性の代用品ではあり得ない。二次元の異性こそが彼らにとっての理想少女であって、三次元の異性は、ノイズにまみれた、気持ち悪い存在でしかない。
http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20080713/p1

一時期の私は、「二次元キャラクターを現実の異性の代用品にしているオタクが沢山いる」と思っていた。だが最近は、その正反対の事態も起こっていると考え始めている。即ち、物心ついた頃から二次元キャラクターを理想少女としていた人達にとっては、まず二次元美少女ありき、であって、三次元の異性は、二次元の異性の代用品にすらならない、という事例が起こりえるということだ。この手の人達においては“萌えオタは、現実の異性に手が届かないから、酸っぱい葡萄をしているんだ”という指摘は成立しにくい。アダルトビデオを見せたら気持ち悪がるような男性や、女性のヌードの直視が困難な男性にとっては、二次元美少女こそが異性そのものであって、代用品というわけではないのではないか。コスプレなどで身を固めた三次元女性であれば、かろうじて彼らのニーズに適うのかもしれないが、その場合も、コスプレ女性こそがせいぜい“美少女キャラクターの代用品”に留まってしまうのではないか。
ここで、「三次元」というのはリアルの比喩として使われているのだろう。例えばフィギュアは一応立体であり、「三次元」ではある。私が問いたいのは感覚の減少ということだ。ここでいう「二次元」の世界にある感覚というのは視覚とあとはせいぜい聴覚だけなのではないか。セクシュアリティも含めて、リアルな人間と関わる場合、私が快楽を(或いは不快を)感じるのは、視覚や聴覚によってのみではない。そこには、皮膚感覚や触覚や嗅覚や味覚も関わっている。「二次元」ではそうした感覚は「ノイズ」として除去されてしまうわけだろうが、その世界って、伝統的に哲学者たちが憧れてきたイデア界に限りなく近いんじゃないか*5。まあ、ここで「これはひどい観念論者ですね」*6といってもいいのだが、それよりも「二次元」の快楽がさまざまな感覚を削ぎ落とした上で存立していることを、特に当事者はどう捉えているのかということを問いたい。また、女子文化が触覚や味覚などの多くの感覚を包摂する仕方で展開しているのに対して、男子文化(の一部)はそれらを排除する仕方で展開しているというのは、ジェンダー論的に言ってどうなのだろうか。

*1:http://d.hatena.ne.jp/ohnosakiko/20080711/1215782732

*2:http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/ohnosakiko/20080711/1215782732

*3:勿論、大野さんが指摘するように、構造を超えて、対象の物質性を体得するという目的もあるのだろう。大野さんの論は、構造の把握よりも、そのようなノイジーな物質性の体得にフォーカスされているといえる。

*4:See http://macska.org/article/223 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080421/1208801593

*5:伝統的な哲学者の振るまいが「「非モテ」男の振る舞い」であったことについては、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070514/1179125368を見られたい。

*6:http://d.hatena.ne.jp/zarudora/20080520/1211292855 See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080527/1211911417