http://d.hatena.ne.jp/noharra/20080621#p2
特に後半は面白く共感する。ただ、仮名も「漢字から自立できない」ですよ*1。たしか、ハングルのように漢字に依存しない字を発明したのが日本人と朝鮮人との違いだと柄谷行人氏が言っていたような。また、江戸の文藝は一般に本地的なものと外来的なものが相互に「汚染」し合うことを肯定した上で成立していたわけで、そのことが日本語なるものの多声性をサポートしていることに関しては、故由良君美先生の「《ルビ》の美学」などは今でも読まれる価値があるでしょう。
仁斎は1627年生まれ、宣長は1730年生まれなので百年後であるが、その間徂徠などがでて知識人の漢文熱はむしろ高まっていたと考えられる。玉鉾百首というものを見たときわたしたちは奇異の念にとらわれる。儒教仏教という外来の文化に汚染されていない本来の日本的なものを求めるなら当然、漢字を追放しかな(ひらがな、カナカナ)だけで表現すればよかったのになぜ、万葉仮名なんてものに執着しオタク的にそれに拘ってみせたのか。万葉仮名は漢字そのものであり、日本語が漢字から自立できないことを強調するそのようなパフォーマンスにしかならないではないか。わたしたちは皆そう思う。しかしそれは明治に入ってきた近代言語学が「表音文字優位」というイデオロギーを掲げているのを知り喜んだ国語学者によって作られた国語教育によって作られた感受性にすぎない。宣長の時代かなはあくまで仮名(仮の文字)にすぎずそれだけで自立できるとは考えられなかった。
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*1:「万葉仮名」については、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061015/1160934621で言及した。