http://d.hatena.ne.jp/terracao/20080621/1214022281
宮崎勤処刑*1にOKを出した鳩山邦夫への『朝日新聞』コラムのおちょくり?に関するterracaoさんの記事がかなり煮立っているようである。この記事に関しては、以前書いたhttp://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060127/1138329871やhttp://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070828/1188277338とも関係すると思うので、ここでは言わない。
さて、
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20080618/p1
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20080619/p1
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20080620/p1
http://d.hatena.ne.jp/CloseToTheWall/20080619/p1
釜ヶ崎の〈暴動〉*2における〈暴力〉の意味についての省察。以下では、ごく一般的なことを述べるにとどめる。暴力を〈道徳〉的準位で語ってはいけないだろう。さらに、<政治>的準位で語ることもできないだろう。暴力は自然、或いは生命に属するものであり、善悪の手前若しくは彼方にある。例えば、ジャン・ジュネの顰に倣えば、草木は暴力的に大地を突き破って芽吹くが、あなたは草木を道徳的に指弾できるのか。但し、暴力に対しては為す術がないということではない。事実、私たちは<暴力>に対して日々判断をしている。また、私たちが仁/不仁の区別ができるというのも人間学的事実であるといえよう*3。つまり、私たちは暴力に関して、仁なる暴力と不仁な暴力を区別しているわけだ。仁/不仁の区別は感性の準位で行われるので*4、その根拠について例えばcommonsenseに訴えるということはできるだろうが、それを客観的(或いは脱文脈的に)示すことはきわめて難しい。では、どうするのか。暴力は被った暴力に対する、或いは予期された暴力に対する反応であることが多い*5。その場合、暴力を(正当化ではなく)合理化する基準はその暴力が均衡したものかどうかという経済学的な基準だろう*6。
暴力を議論する際に最も避けなければいけないのは、安手の<道徳>に拠りつつ議論を進めるということだろう。これは<道徳>を損ねてしまうし、同時に<暴力>の根にある<生命>や<自然>を損ねてしまうことになる。さらに、このことは死刑という暴力を語る際にも要求されることである。
*1:See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080617/1213698178
*2:See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080616/1213616174 ギメで括ってあることに注意されたい。
*3:仁/不仁の区別については、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060501/1146495355 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070920/1190254467 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060829/1156827266を見られたい。
*5:暴力がさらに暴力を呼び起こすという連鎖が問題であるのは言うまでもない。