承前*1
斎藤慶典氏の『哲学がはじまるとき』から「他人」と世界について論じているところを抜書きしてみる。
さらに、「世界のすみずみにまで規定のはたらきとしての「私」が媒体として浸透しているのと同様、他の「私」の規定のはたらきも、それが世界を「何」において規定するはたらきであるかぎりで、同じく世界のすみずみにまで浸透していることになるだろう」(pp.210-211)、「むしろ[判断の]食い違いが生ずること自体が、規定のはたらきの同一世界への帰属を証しするのである」(p.211)と述べられている。勿論、こうした議論に反対なのではない。ただ、思うのはもっと言ってもいいのではないか、もっと言うべきなのではないかということだ。「私」と「判断」が「食い違う」〈他者〉がなければ世界は存立しない、と。
他人と私は、それぞれが事物やお互い同士に対して下す判断を、それらが判断として世界のうちに姿を現わしている以上、互いに付き合わせることができる。はじめから同一の判断で一致することもあれば、判断の食い違いを照らし合わせることで、さらには第三者などの判断を呼び出すことで、世界内に存在する「何」かに関して共通の判断に到達することができる。共通の判断に到達しない場合でも、それが判断であるかぎり、相手が、他人が、「何」らかの対象についてどのように判断を下しているのかを知ることは原理的に可能である。このようにして、私と他人たちは同一の時・空間的、概念的世界を共有している。あるいは、同一の時・空間的、概念的世界を共有するように判断が構成されている、と言っても同じことである。私も他人もともに世界の中で生きていかなければならないのに、世界の「何」について下す判断がいちいち食い違っていては、つまりは互いが別々の世界に住んでいては、はなはだ不都合だからだ。この意味では、世界は同一でなければならないのだ。逆に、判断の食い違いが不都合を生むのであれば、それは両者が同じ世界に住んでいるからである。完全に別個の世界に住んでいるのであれば、そこには何の接触も生じないのだから、判断が食い違っても別に不都合は生じないはずだからだ。より正確に言い直せば、その場合にはそもそも判断が「食い違う」ということが意味をなさない。食い違うこと事態が、すでに両者が接触してしまっていることを、つまりは同一の世界の内にあることを示しているのだ。この意味では、世界ははじめから同一なのである。(pp.209-210)

哲学がはじまるとき―思考は何/どこに向かうのか (ちくま新書)
- 作者: 斎藤慶典
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2007/04
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