意識としての「消費者」

鷲田清一内田樹「「大人学」のすすめ」(in 『大人のいない国』*1、pp.13-43)


先ず内田氏の発言;


今も問題になっている未熟さは(略)消費者であることの宿命じゃないかと思うんです。彼らは自分たちを、生産には関与しない、もっぱら消費する人間だと思っている。今の日本における「未成年者」は、現実の年齢や社会的立場とは無関係に、「労働し生産することではなく、消費を本務とする人」というふうに定義できると思うんです。労働を通じて何を作り出すかではなく、どんな服を着て、どんな家に住み、どんな車に乗って、どんなレストランで食事をするか……といった消費活動を通じてしか自己実現できないと思っている。(p.19)
それに対して、

鷲田 消費者であるということは、裏返すとぼくらの生活空間自体がサーヴィスで充満しているということです。ものを食べるにしても、勉強するにしても、もめ事を解決するにしても、病気やケガを治すにしても、その手段はみんな「サーヴィス」というかたちで提供される。生きること自体が、どういうサーヴィスを選んで買うか、ということになっている。民間のサーヴィス提供者であるし企業も、公共サーヴィスの提供者である行政も、消費者や市民を「クライアント」として見る。サーヴィスの提供者と顧客の関係が生活環境の中で充満してきたのがポスト産業社会です。
内田 消費によってしか自己実現できないと信じているからこういうメンタリティが生まれるのです。それが学ばない子どもたちや労働しない若者たちを生み出している。彼らはあらゆるものを「商品」としてとらえようとしますから。消費者が陳列棚の前で商品を選ぶように、あらゆるものについて費用対効果を吟味する*2
でも、このマインドは「学び」を動機づけることができない。「学び」というのは、自分がこれから学ぶものの意味や価値がまだわからない、だから「学び」を通じて、自分が学んだことの意味と価値を事後的に知る、という時間の順序が逆転したかたちの営みだからです。消費者マインドにはこれが理解できない。自分がこれから買おうとする商品の価値や有用性を知らないで商品を買う消費者というのは存在しませんから。(pp.19-20)

鷲田 (前略)
選挙でもよく「民意」と言うけど、民意って作らないと存在しないものだと思うんですね。たとえば、隣人が自分の家の前にゴミを置いていったとしたら、ふつうは隣に文句を言うなり、それでもめたら町内の顔役が出てきて……というふうに地域で作っていくものでしょう。それをすぐに「清掃局がちゃんとしていないからだ、どうにかしろ」と行政に文句を言う。大事なのは民意の中身よりも、それを形成する場をどう作るかということなんですが、その作り方を忘れてしまっている。
内田 政治にかかわるときの意識自体がもう消費者マインドにセットされているからだと思います。今、鷲田さんは「民意を形成する」と言われましたけれど、消費者はその定義からして、商品を作ることがないんです。彼らが扱うものは、なんでもすべて「すでにパッケージされている」状態でなけれならない。消費者だからパッケージされたものを比較したり、考量したりすることには長けている。でも、「マニフェスト」を読み比べるのは政治じゃない。「マニュアル」を読み比べることが労働じゃないのと同じです。政治というのはぐちゃぐちゃした「生もの」の現実を拾い上げて、それをかたちのあるものに仕上げてゆくダイナミックで遂行的なプロセスなんですから。(pp.21-22)
ここで、生産者(「サーヴィス」の作り手)/消費者(「サーヴィス」の受け手)という分業の境界が疑いなく維持されていることに注意されたい。