Jonathan Culler On Deconstruction

On Deconstruction: Theory and Criticism After Structuralism

On Deconstruction: Theory and Criticism After Structuralism

Jonathan CullerのOn Deconstruction: Theory and Criticism after Structuralism*1を暫く前に読了する。


Preface

Introduction

Chapter One. Readers and Reading
1. New Fortunes
2. Reading as a Woman
3. Stories of Reading


Chapter Two. Deconstruction
1. Writing and Logocentrism
2. Meaning and Iterability
3. Grafts and Graft
4. Institutions and Inversions
5. Critical Consequences


Chapter Three. Deconstructive Criticism

Bibliography
Index

この本は脱構築に関する〈概説書〉としてはかなり初期のものに属するだろう。第1章では批評理論において「読み」或いは「読者」が問題化してきたことが論じられ、第2章ではデリダによる哲学的テクストの脱構築的な読みが辿られる。第3章では脱構築的な批評、例えばバーバラ・ジョンソンのメルヴィル論、ポール・ドゥ・マンのルソー論などが例示されることになる。副題から想像されるように、この本の重要な論点の一つは構造主義脱構築の関係についてなのだが、それは主に第2章5節の”Critical Consequences”で議論されているように思われる。但し、著者がバルトやフーコー構造主義者として分類していることは(現在からすれば)やはり問題だろう。さらに、第1章で「読み」或いは「読者」の問題化が論じられているように、米国の文藝批評の世界におけるニュー・クリティシズムの支配(構造主義の導入もそれへのひとつの反発であった)という文脈を踏まえないと、この本を理解するのは難しいといえるだろう。第2章を主導するのがデリダであるのに対し、第3章を主導するのはポール・ドゥ・マンであり、そこで議論の焦点がテクストと読みとの関係から読みと(先行する)読みとの関係に転移されているようにも思える。また、第3章でドゥ・マンの議論が辿られるのを読んでいると、第2章でデリダの議論が延々と辿られてきたことも含めて、全体がドゥ・マンの本の題名でもあるBlindness and Insightというタームに収斂するような感を持った。勿論、これはありふれているといえばありふれているが、理性が自らに対して盲目であるということこそが理性が理性として機能する条件であるというきわめて限界的かつ危険な論点に繋がっていることはいうまでもない――”the blindness that makes possible the insights of deconstructive criticism”、また”the methodological necessity that cannot be justified but is tolerated for the power of its results”(p.280)。
Blindness and Insight: Essays in the Rhetoric of Contemporary Criticism (Theory & History of Literature)

Blindness and Insight: Essays in the Rhetoric of Contemporary Criticism (Theory & History of Literature)