Objection to Babel

Skeltia_vergberさんに教えていただいたのだが、映画『バベル』の菊地凛子のアカデミー助演女優賞へのノミネートに対して、「デフユニオン」の主宰者塩野谷富彦氏が異議を申し立てていたことを知る。そのテクスト*1は、”I would like to make an strong objection to Ms. Rinko Kikuchi's nomination for supporting role of Academy Award.”(原文は赤字)として、


I know now many people give high remarks for her performance. However, We, the Deaf people in Japan, do not so. For hearing people, they do not understand her performance in Sign Language well. If she gets the award,
it might give much negative effect on recognition of our Sign language and the Deaf people. It might also cause misunderstanding about our culture.

With my frank view as the hearing-impaired, her performance as the deaf girl is not so good and we cannot appreciate her sign language performance.

と語る。
私が『バベル』を観ていて、菊地凛子の演技に違和感を感じなかったのは、私が手話を解さぬため、適切な手話とそうでない手話の区別がつかなかったためといえるだろう。ところで、映画では(TVドラマでも)方言や外国語についてはネイティヴ・スピーカーの専門家が俳優を指導するのは普通であろうが、この場合の日本手話に関してはそういうことはなかったのだろうか。塩野谷富彦氏は”performance in Sign Language”にのみ言及しているが、それだけでなくノンヴァーヴァルな所作にも問題があるという人もいる。たしかに、言語(話し言葉)は抽象的に声としてのみ現象しているのではなく、常に身振りや表情とセットになっている(勿論、このレヴェルにおいても、私は違和感は感じなかった)。リアリズムに基づく演出では、役者は細部に至るまで、その属性を演じることを要求される。例えば、姜文の『鬼子来了』で日本兵を演じるために香川照之が先ずさせられたことは、人民解放軍の兵営に放り込まれ、兵隊の身振りを身体化することだった。或いは、サム・ペキンパーの『わらの犬』で数学者を演じるために数学の専門書を何冊も読破したダスティン・ホフマン。そのような訓練が不足していたということか。
大衆向けのハリウッド映画では未だに(主に米国人の)観客が〈外国語〉の世界に突き落とされるということはあまりない。だからこそ、中国人が演じる日本の藝者が英語を喋るということになる。多分それが根柢的に変わりはじめたのは、ソフィア・コッポラの『ロスト・イン・トランスレーション』辺りからではなかったか*2。『バベル』の言語感覚というのがその地平の上にあることはたしかである。Skeltia_vergberさんによれば、ベルベル語の科白には日本語字幕がついていたということなのだが(私が観た中国版のDVDでも中国語の字幕がついていた)、英語の字幕はどうだったのだろうか。字幕ということだと、マイケル・ウィンターボトム監督の、パキスタンの難民キャンプから倫敦まで越境するアフガン難民の少年の物語『イン・ディス・ワールド』では、主人公が理解できる言語以外は翻訳しないようにという強い要請が監督側から日本の配給会社にあった筈だ。
ロスト・イン・トランスレーション [DVD]

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手話については、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20071102/1194030402で触れた。また、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080215/1203008775と関係あるか。

『バベル』に関しては、ほかにも書きたいことはあるのだが、ここでは1つだけ。『バベル』は中国語では『通天塔』と訳されている。あの大阪の通天閣にもそのような深遠な意味があったのか。

*1:http://www.deaf.or.jp/babel/

*2:中国版のDVDでは、日本語の科白まで訳されてしまっており、作家の意図が裏切られた結果になっている。